ジョン・エリオット (英語 : John Eliot 、1612年 10月18日 洗礼 – 1685年 3月25日 埋葬)は、イングランド王国 の政治家、コーンウォール の地主。イングランド王チャールズ1世 に対する野党活動で知られるサー・ジョン・エリオット の長男であり、庶民院 議員を3期務めたが、議会活動は少なかった[ 1] 。
生涯
生い立ち
サー・ジョン・エリオット と妻ラディグンド(Radigund 、旧姓ジェディ(Gedy /Gedie )、1628年6月13日埋葬、リチャード・ジェディの娘)の長男として生まれ、1612年10月18日に洗礼を受けた[ 2] 。1628年までにティヴァートン (英語版 ) のグラマースクール (ブランデルズ・スクール (英語版 ) )に入学、1629年まで通った[ 1] 。1629年から1631年までオックスフォード大学 リンカーン・カレッジ で教育を受け、1631年から1632年までフランス王国 を旅した[ 1] 。1632年に父が死去すると、年収1,500ポンドの得られる地所を継承した[ 1] 。
清教徒革命期
1640年の短期議会 でセント・ジャーマンズ選挙区 (英語版 ) の代表として議員を務めた[ 1] 。イングランド内戦 期とイングランド共和国 期では1645年6月10日から1655年までデヴォン海軍次官 (英語版 ) を[ 3] 、1647年から1653年までコーンウォール の治安判事 を、1655年から1662年までロストウィシエル (英語版 ) の長老議員 (英語版 ) を務めるなど、主にコーンウォールの地方官職を歴任した[ 1] 。1656年にコーンウォールの治安判事を再任、1670年まで務めた[ 1] 。また、イングランド内戦で地所を王党派 の軍勢に蹂躙され、長期議会 は1647年にエリオットへの賠償金7,000ポンドを可決した[ 1] 。
王政復古以降
イングランド王政復古 の後、1660年仮議会 の選挙でコーンウォール選挙区 (英語版 ) から出馬したが、得票数4位(最下位)で落選した[ 4] 。一方、自身の懐中選挙区 であるセント・ジャーマンズ選挙区では無投票で当選、1661年イングランド総選挙 でも再選した[ 5] 。また、1660年3月13日から10月までデヴォン海軍次官を務めた[ 1] [ 3] 。
議会では選挙および特権委員会(Committee of Elections and Privileges )、レジサイド 処刑委員会(1662年)、第二次英蘭戦争 での敗北に関する調査委員会(1667年)への任命記録が残っているが、あまり活動的ではなかった[ 1] 。1679年イングランド総選挙 でセント・ジャーマンズ選挙区の2議席に息子ダニエル とリチャード を指名し、自身は議員を退任した[ 5] 。
1685年に死去、同年3月25日にセント・ジャーマンズ (英語版 ) で埋葬された[ 2] 。
家族
1632年11月28日、オナー・ノートン(Honor Norton 、1652年11月1日埋葬、サー・ダニエル・ノートン (英語版 ) の娘)と結婚、5男5女をもうけた[ 2] 。妻の名前はオノラ(Honora )とも[ 1] 。オナーは3,000ポンドの持参金 をもたらしたが、後見裁判所 (英語版 ) による許可のない結婚だったため、エリオットは罰金刑に処された[ 1] 。
ブリジット(Bridget 、1638年2月1日洗礼 – ?) - 1665年7月13日、ウィリアム・サヴェリー(William Savery )と結婚[ 2]
ジョン(1641年2月2日没[ 2] )
エドワード(1639年3月28日洗礼 – 1639年3月29日埋葬[ 2] )
ダグラス(1640年11月23日洗礼 – ?) - 1663年2月13日以降、スパーク氏(Sparke )と結婚[ 2]
ラディグンド(Radigund 、1641年11月27日洗礼 – 1694年) - 1675年5月25日、エドワード・ワイズ (英語版 ) (1632年 – 1675年11月17日)と結婚[ 2]
オナー(1692年9月21日埋葬) - 1662年2月15日、ジョン・スペコット (1641年ごろ – 1678年1月10日埋葬)と結婚、子供あり[ 2]
スーザン(1648年4月27日洗礼 – 1683年7月6日埋葬) - 1676年7月13日、第3代準男爵サー・ヘンリー・ヘレ (1677年4月没)と結婚[ 2]
ダニエル (1649年ごろ – 1702年10月11日) - 庶民院議員。1685年7月13日、キャサリン・フレミング(Katharine Fleming 、1660年ごろ – 1687年12月20日埋葬)と結婚、1女をもうけた[ 2]
エリザベス(1650年6月6日洗礼 – 1675年10月18日埋葬[ 2] )
リチャード (1652年4月22日洗礼 – 1685年12月22日埋葬) - 庶民院議員[ 2]
出典
^ a b c d e f g h i j k l Helms, M. W.; Watson, Paula (1983). "ELIOT, John (1612-85), of Port Eliot, St. Germans, Cornw." . In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年4月11日閲覧 。
^ a b c d e f g h i j k l m Crisp, Frederick Arthur, ed. (1919). Visitation of England and Wales (英語). Vol. 13. pp. 122–126.
^ a b Sainty, John Christopher (June 2003). "Vice Admirals of the Coasts 1558–1660" . Institute of Historical Research (英語). 2007年9月30日時点のオリジナル よりアーカイブ。2021年4月11日閲覧 。
^ Watson, Paula; Henning, Basil Duke (1983). "Cornwall" . In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年4月11日閲覧 。
^ a b Watson, Paula (1983). "St. Germans" . In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年4月11日閲覧 。