エンゲルベルト・アウグスト・フォン・アーレンベルク
エンゲルベルト・アウグスト・フォン・アーレンベルク(Engelbert August Anton Herzog von Arenberg, 1824年5月11日 - 1875年3月28日)は、ドイツ=ベルギー系の大貴族、シュタンデスヘル。第8代アーレンベルク公爵。第14代アールスコート公爵、第3代メッペン公爵、第3代レックリングハウゼン侯。 生涯アーレンベルク公プロスペル=ルイと後妻のロプコヴィッツ侯女マリー・ルドミラ(1798年 - 1868年)の間の第3子、長男としてブリュッセルのダランベール公爵宮殿にて誕生。正式な洗礼名はフランス語でアンジェルベール・オーギュスト・アントワーヌ・ジョゼフ・レオン・ウェンセスラス・バルタザール・エピファニー・レオナール・マクシム・ジスラン(Engelbert Auguste Antoine Joseph Léon Wenceslaus Balthazar Épiphanie Léonard Maxime Ghislain)。1861年の父の死とともに公爵家の家督を継いだ。先祖代々の本拠はベルギー領内にあったが、父はナポレオンに接近してドイツ領内にアーレンベルク=メッペン公領を授けられており、その領土がプロイセン王国とハノーファー王国に陪臣化されていたため、エンゲルベルト・アウグストもドイツ貴族・領主として活動した。 家督継承とともにプロイセン貴族院議員となる。ハノーファー等族議会第一院(貴族院)議員でもあったが、プロイセンによるハノーファー併合と同時に議会が消滅し、この職はプロイセン領ヴェストファーレン州議会議員の職に代えられた。アーレンベルク=メッペン公領のシュタンデスヘルとして、ドイツ帝国成立直後の1875年まで公領の領主権を保持した。文化事業の後援者としても知られた。1875年、ブラバント州ルーヴェン郊外ヘヴェルレーの居館アーレンベルク城(アランベール城)にで死去。享年50歳。 子女1868年5月27日にウィーンで、同族の従叔父アーレンベルク公子エルンスト・エンゲルベルト(祖父の弟マルク伯オーギュストの長男)の一人娘エレオノール(1845年 - 1919年)と結婚。5人の子女をもうけた。
参考文献
外部リンク
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