エンゲルベルト・マリア・フォン・アーレンベルク
![]() ![]() エンゲルベルト・マリア・フォン・アーレンベルク(Engelbert-Maria von Arenberg, 1872年8月10日 - 1949年1月15日)は、ドイツ=ベルギー系の大貴族、シュタンデスヘル。第9代アーレンベルク公爵。第15代アールスコート公爵、第4代メッペン公爵、第4代レックリングハウゼン侯。 生涯アーレンベルク公エンゲルベルト・アウグストとその妻のアーレンベルク公女エレオノールの間の第3子、長男としてザルツブルク郊外ビュルグルシュタインのアーレンベルク城(アランベール城)で誕生。正式な洗礼名はフランス語でアンジェルベール・プロスペル・エルンスト・マリー・ジョゼフ・ジュール・バルタザール・ブノワ・アントワーヌ・エレオノール・ロラン(Engelbert Prosper Ernst Marie Joseph Jules Balthasar Benoit Antoine Eleonore Laurent)。一族の所有するブリュッセル市街のエグモント宮殿、ルーヴェン郊外ヘヴェルレーのアーレンベルク城(アランベール城)、エノー州アンギャンのアンギャン城を行き来しながら育った。 プロイセン王国軍陸軍士官に任官し、1889年から1893年までミュンスター駐屯の第4胸甲騎兵連隊に所属、1893年から1896年までベルリン駐屯の近衛胸甲騎兵連隊に所属。第一次世界大戦中は陸軍第7視察部所属の陸軍少将を務めた。 エンゲルベルト・マリアは3歳で父を亡くすと同時に公爵家の莫大な資産・所領を相続しており、所領の中心はエムスラント(現在のノルトライン=ヴェストファーレン州)の広域にわたる森林地であった。1903年にはミュンスターラントのノルトキルヒェン城を購入した。1909年から1912年まで、リューディンクハウゼン=ヴァーレンドルフ=ベックム選挙区選出、中央党所属であるドイツ帝国議会議員を務めた。1903年から1918年までプロイセン貴族院の世襲議員席を占め、1917年から1919年年までヴェストファーレン州議会議員も務めた。あるジャーナリストは1913年、エンゲルベルト・マリアについて「ヴェストファーレン州では最も裕福な大地主であり、その富の大きさは突出している」と書いている。エンゲルベルト・マリアは6300万マルクと見積もられた資産を贅沢に消費した。第1次世界大戦後はドイツを出国してミラノで生活した。1949年に病に倒れ、療養先のローザンヌで亡くなった。 エンゲルベルト・マリアは先祖伝来の所領や工場、鉱山などを経営・管理し、1928年から1932年の4年間にアーレンベルク=メッペン社、アーレンベルク=ノルトキルヒェン社、アーレンベルク=レックリングハウゼン社、アーレンベルク=シュライデン社、アーレンベルク=デュッセルドルフ社の5つの有限会社を設立した。これらの企業体の社員は最初、エンゲルベルト・マリアの3人の子供だけで構成されていた。彼はまた、同時期に数多くの社会福祉施設を創設した。1919年にメッペンの、1927年にレックリングハウゼンの名誉市民となった。 子女1897年10月14日にブリュッセルで、リーニュ公女エドウィッジ(1877年 - 1938年)[1]と結婚した。公爵夫妻は3人の子をもうけたが、子供たちにはいずれも実子がなかった。
1992年の次男エーリクの死後、エンゲルベルト・マリアの姉ソフィー(1871年 - 1961年)とその夫で従兄のジャン=バティスト(1850年 - 1914年)の孫ジャン=エンゲルベルト(1921年 - 2011年)[4]が家督を継いで第12代アーレンベルク公爵となった。翌1993年、ジャン=エンゲルベルトのアーレンベルク公爵位は、ベルギー貴族の爵位として認められた。 脚注
参考文献
外部リンク
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