クリフ・ペニントン (野球)
クリフトン・ランドルフ・ペニントン(Clifton Randoulph Pennington, 1984年6月15日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州コーパスクリスティ出身の元プロ野球選手(内野手)。右投両打。愛称はペニー(Penny) [1]。現在は、テキサスA&M大学野球部のアシスタントコーチを務める。 経歴プロ入りとアスレチックス時代2005年のMLBドラフト1巡目(全体21位)でオークランド・アスレチックスから指名され、6月17日に契約を結んだ。契約後、傘下のA級ケーンカウンティ・クーガーズでプロデビュー。69試合に出場して打率.276、3本塁打、29打点、25盗塁を記録した。 2006年はA+級ストックトン・ポーツでプレーし、46試合に出場して打率.203、2本塁打、21打点、7盗塁を記録した。6月25日に右ハムストリングの故障で離脱した。8月にルーキー級アリゾナリーグ・アスレチックスで復帰し、9試合に出場した。 2007年はまずA+級ストックトンでプレーし、68試合に出場して打率.255、6本塁打、36打点、9盗塁を記録した。6月にAA級ミッドランド・ロックハウンズへ昇格した。同球団では70試合に出場して打率.251、2本塁打、21打点、8盗塁を記録した。 2008年はAA級ミッドランドで開幕を迎え、50試合に出場して打率.260、18打点、20盗塁を記録した。5月30日にAAA級サクラメント・リバーキャッツへ昇格した。同球団では65試合に出場して打率.297、2本塁打、16打点、20盗塁を記録した。8月12日にアスレチックスとメジャー契約を結んでアクティブ・ロースター入りし[2]、同日のタンパベイ・レイズ戦でメジャーデビュー。「9番・三塁手」として先発起用されたが、3打数無安打に終わった[3]。昇格後は内野のバックアップとして起用されていたが、9月からは先発起用が増え、この年メジャーでは36試合に出場して打率.242、9打点、4盗塁を記録した。 2009年2月21日にアスレチックスと1年契約に合意した。4月4日にAAA級サクラメントへ異動し[4]、開幕を迎えた。AAA級サクラメントでは99試合に出場して打率.264、3本塁打、40打点、27盗塁を記録した。7月31日にメジャーへ昇格すると[5]、同日に正遊撃手のオーランド・カブレラが移籍したため、昇格後は遊撃のポジションを奪取し、60試合に出場して打率.279、4本塁打、21打点、7盗塁を記録した。 2010年3月8日にアスレチックスと1年契約に合意[6]。この年は正遊撃手として開幕を迎え、156試合に出場して打率.250、6本塁打、46打点、29盗塁を記録した。 2011年2月27日にアスレチックスと1年契約に合意[7]。この年は148試合に出場して打率.264、8本塁打、58打点、14盗塁を記録した。 2012年2月12日にアスレチックスと1年契約に合意した。開幕後は例年通り正遊撃手として起用されていたが、7月20日に左肘の故障で15日間の故障者リスト入りした[8]。その後、8月7日に復帰した[9]。この年は125試合に出場して打率.215、6本塁打、28打点、15盗塁を記録した。シーズン終了時点で当時のアスレチックスのロースターの中では一番の古株であった。 ダイヤモンドバックス時代2012年10月20日にマイアミ・マーリンズも絡んだ三角トレードで、アリゾナ・ダイヤモンドバックスへ移籍した[10]。 2013年1月30日にダイヤモンドバックスと総額500万ドルの2年契約[11]を結んだ[12][13]。ダイヤモンドバックスは前年遊撃手を固定することができず、ウィリー・ブルームクイストらと正遊撃手の座を争うこととなったが、開幕から先発起用された。しかし、開幕後は打率2割を切るなど不調が続き、5月からは先発から外れ、メジャー2年目のディディ・グレゴリウスに遊撃のポジションを奪われるなど苦悩の1年となった。この年は96試合の出場にとどまり、打率.242、1本塁打、18打点、2盗塁を記録した。 2014年は前年AAA級でMVPと新人王を獲得した有望株のクリス・オーウィングスが正遊撃手となったため、厳しい状況に置かれた。6月3日に左手親指の故障で15日間の故障者リスト入りした[14]。8月6日に復帰した[15]後は、今度はオーウィングスが右肩痛で約2ヶ月の戦線離脱をしていたため、グレゴリウスが遊撃のポジションを務めており、遊撃・二塁のバックアップとして起用され、2009年以来の三塁守備にも就いた。この年は68試合に出場して打率.254、2本塁打、10打点、6盗塁と不本意なシーズンとなった。オフの12月28日にダイヤモンドバックスと327万5000ドルの1年契約に合意した[16]。2015年シーズンも控えに甘んじる事が多く、自身の誕生日でもある6月15日の試合ではマイナー以来、メジャーでは初めて左翼手の守備に就き、補殺も1記録した。 ブルージェイズ時代2015年8月8日にウェイバー公示を経てダウェル・ルーゴとのトレードで、トロント・ブルージェイズへ移籍した[17]。ブルージェイズでは内野のユーティリティとして33試合に出場したが、打撃面では打率.160、2本塁打と結果を残せなかった。シーズン全体では3年ぶりに100超となる105試合でプレーし、打率.210、3本塁打、21打点、3盗塁という打撃成績だった。そして、リーグチャンピオンシップ(対カンザスシティ・ロイヤルズ)で、ポストシーズンではMLB史上初となる野手登録の選手が登板するという珍記録を樹立した[18]。オフの11月2日にFAとなった[19]。 エンゼルス時代2015年11月17日にロサンゼルス・エンゼルスと2年375万ドルの契約を結んだ[20]。 2016年は控え内野手として二塁、遊撃をメインに起用された。74試合に出場して打率.209、3本塁打、10打点、1盗塁を記録した。守備面では、二塁の58試合が多く、1失策、守備率.994、DRS + 3、UZR + 0.8、遊撃(17試合)では、1失策、守備率.983、DRS + 1、UZR + 0.9を記録した。 レッズ時代2018年2月15日にシンシナティ・レッズとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加することになった[22]。開幕はメジャーで迎えるも[23]、4月26日に傘下のAAA級ルイビル・バッツへ降格[24]、さらに28日にはマイナー契約となった[25]。その後、5月18日に自ら契約解除を申し出て自由契約となった[26]。 レンジャーズ傘下時代レッズを自由契約となった同日の2018年5月18日にテキサス・レンジャーズとマイナー契約を結び[27]、翌19日に傘下のAAA級ラウンドロック・エクスプレスへ配属された。オフの11月2日にFAとなった[25]。 アスレチックス傘下時代2019年2月15日にプロ入り時の古巣であるアスレチックスとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加した[28]。 3月14日には、東京ドームで行われるシアトル・マリナーズとの開幕シリーズに参加するメンバー30人に選ばれ[29]、来日した。17日と18日に行われた北海道日本ハムファイターズとのプレシーズンマッチではいずれも途中出場した。開幕直前の3月31日に自由契約となった。 ヤンキース傘下時代その後、4月4日にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだ[30]。開幕から傘下のAAA級スクラントン・ウィルクスバリ・レイルライダースでプレーしていたが、6月4日に自由契約となった[25]。 引退後2019年6月17日に母校のテキサスA&M大学のアシスタントコーチ就任が発表され[31]、2年間務めた。 2021年からはダラス・バプティスト大学のアシスタントコーチ兼リクルーティング・コーディネイターとなり、4年間務めた。 2025年6月からは再びテキサスA&M大学のアシスタントコーチを務める[32]。 プレースタイル俊足を生かした広大な守備範囲と強肩を持つも、メジャーではよくあるジャンピングスローをあまりしない堅実な守備で知られている[要出典]。2010年にはゴールドグラブ賞、フィールディング・バイブル・アワードの候補にも名を連ねた。打撃は苦手で、狙い球を絞るゲスヒッタータイプ。規定打席以上では2011年の.264が自己最高となっている。本職は遊撃だが、二塁の方が守備成績が良く、後年には、三塁や左翼の守備機会も増えている。 詳細情報年度別打撃成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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