ゴットホルト・エフライム・レッシング
ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing、1729年1月22日 - 1781年 2月15日)は、ドイツの詩人、劇作家、思想家、批評家。ドイツ啓蒙思想の代表的な人物であり、フランス古典主義からの解放を目指し、ドイツ文学のその後のあり方を決めた人物である。その活動は、ゲーテやシラー、カント、ヤコービ、ハーマン、ヘルダー、メンデルスゾーンなど当時のドイツ文学・思想に多大な影響を及ぼした。西洋近代の転生説を最初に明記した人物と言われており[1]、この転生思想は現代日本への影響も大きい。 また彼の死後、文学・哲学界でいわゆる「スピノザ論争」がおきた。 生涯生い立ちザクセン州のカメンツという小さな町に生まれる[2]。父:ヨハン・ゴッドフリード・レッシングは聖職者で、後にカメンツの主任司祭(Pastor primarius、主席牧師とも)になった[2]。 ゴットホルトは同地のラテン学校で初等教育を受けた[2]。1741年にマイセンに所在する、ザクセン州立ギムナジウムのザンクト・アフラ校(en:Sächsisches Landesgymnasium Sankt Afra zu Meißen)へ進学する[2]。学業に熱心に望み、校長から「二疋分の芻草がいる騾馬」とその吸収力を称賛された[3]。 著作・創作活動ライプツィヒ大学で、はじめ神学を学んだ[3]。しかしレッシングは、神学ではなくヨハン・フリードリヒ・クリストやヨハン・アウグスト・エルネスティの言語学の講義に、より関心を持った[3]。また女優のフリーデリケ・カロリーネ・ノイベルが座長を務める劇場に惹きつけられ、ノイベル夫人はレッシングの最初の喜劇『若い学者の群』の上演を許諾した[4]。父ヨハンは息子のこうした交遊を好ましく思わなかったので、レッシングはさらに医学を学ぶ名目で同大学に在籍を続けた[5]。ノイベル一座は1748年に解散した[5]。このためレッシングは、まずヴィッテンベルクに行き、さらに友人で記者のクリストロープ・ミュリウスを頼ってベルリンに移った[5]。 その後に著作・創作活動とともにさまざまな職を歴任。主にベルリンとライプツィヒとで、1748-1760年までには著述家、編集者として働く。 1751年暮れにヴィッテンベルクに戻るが、約1年が経過した1752年頃、文学で生計を立てることを志してベルリンに上京する[6]。特に、1755年の『ミス・サラ・サンプソン』は、英国のジョージ・リロの『ロンドン商人』を基にし、さらに性格描写は同国の小説家サミュエル・リチャードソンの影響を強く受けているものの、ドイツにおける初のブルジョワ劇(ドイツ語: Bürgerliches Trauerspiel、世話物悲劇・平民悲劇とも)だった[7]。この作品はフランクフルト・アン・デア・オーダーで初演されると大好評を博した[7]。 この二度目のベルリン滞在ではモーゼス・メンデルスゾーンと親交を持ち、彼と共同で『ポープは哲学者か!』(ドイツ語: Pope ein Metaphysiker!)と題した論文を完成させている[7][注釈 1]。この他に、詩人のヨハン・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・グライムや、軍人のエヴァルト・クリスティアン・フォン・クライストらとも知己になった[8]。 1755年10月、戯曲に専念するためライプツィヒに移る[8]。裕福な商人のゴッドフリード・ヴィンクレルをパトロンとして、約3年間の外遊を計画するが、七年戦争により挫折した[8]。ヴィンクレルとは金銭問題で6年にも及ぶ法廷闘争となり、レッシングが勝訴した[9]。この間、中世文学の批評を行うとともに、再びクライストと親交を持った[10]。1758年、クライストの移駐に伴う別離を機に、レッシングは再びベルリンに移った[10][注釈 2]。 1760年に土地と仕事を変える必要からブレスラウに移り、1760-1765年にはフリードリヒ・ボギスラフ・フォン・タウエンツィーエン将軍の秘書として働いた[11]。タウエンツィーエン将軍はブレスラウの知事でもあり、レッシングはプロイセン軍将校と交友を持って賭博場にも出入りしたが、研究者としての道を忘れることは無かった[12]。ここでキリスト教初期の歴史を研究し、『ラオコオン』に着手した[13]。 1765年にドレスデンでの求職に失敗し、四度目のベルリン生活を送ることとなった[13]。この時期に『ラオコオン』や『ミンナ・フォン・バルンヘルム』を発表した[14]。中でも、1766年の著書『ラオコオン』ではギリシア美術を論じ、後の美術思想に大きな影響を及ぼす「ラオコオン論争」を起こした。 1762年、ハンブルクに移り、ハンブルク国立劇場で脚本家、指導者として働く[15]。しかし劇場運営は失敗し、友人と立ち上げた印刷所経営にも失敗した[16]。このためイタリア行きも検討するが、結局ヴォルフェンビュッテルの図書館職員の地位に落ち着いた[17]。 1776年、47歳にして以前からの知人だった未亡人エヴァ・ケーニヒと結婚するが、1778年にエヴァは産褥死し、子供も生後24時間立たずに夭折した[18]。レッシングの人生の終盤は、ヘルマン・ザミュエル・ライマールスやヨハン・メルヒオール・ゲェーツェらからの激しい批判を受け、ドイツ文学史上屈指の激しい宗教論争を巻き起こした[19]。また代表作でもある『賢者ナータン』の上演のきっかけをつくる。 1781年にブラウンシュヴァイクにて逝去。ドイツにおいて、劇作を専門職とした最初の人物でもあった。 作品 (劇作・著作)
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日本語研究書
参考文献
脚注注釈
出典
外部リンク
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