ザ・クロス (バンド)
ザ・クロス(英: The Cross)は、クイーンのドラマー、ロジャー・テイラーによるソロプロジェクト。1987年から1993年の間に活動し、3枚のアルバムを発表した[2]。 概要1986年の「マジック・ツアー」の終了後に活動を休止したクイーンだが[3][4]、直後からテイラーはアルバム制作に向けて作曲・レコーディングに入っていた。同時進行でバンドメンバーを募集しているが、クイーンのツアーにおいてもサポートキーボーディスト/ギタリストを務めたスパイク・エドニー[5]の起用を除き、他のメンバーに関しては公募の形を取った[6]。オリジナルメンバーのギタリストのクレイトン・モス (Clayton Moss) 、ベーシストのピーター・ヌーン (Peter Noone) 、ドラムスのジョシュ・マクレーはまだ確定メンバーではなかった[7]。テイラーはドラムスではなくフロントマンとしてリズムギターとリード・ヴォーカリストを務めることになった[8][9]。 クイーンではドラムスを担当していたテイラーだが、ザ・クロスではフロントマンとしてリズムギターとリード・ヴォーカリストを務めている[8]。デビューアルバムでは、クラシックロックをダンス・ミュージックと融合させ、続く2作でもダンスミュージックを意識した作りを見せた。作品はイギリスで数回チャートインし[10]、ドイツでは一定度の成果を挙げた一方で、商業的に成功を収めることはなかったが、クイーンの熱心なファンの間では名が知られる存在であり続けている。 第1アルバム『夢の大陸横断』最初のアルバム『夢の大陸横断』"Shove It" はヴァージン・レコードから1987年に発売されたが、全曲がテイラーの手によるものだった[11][12][13]。うち2曲にはクイーンのメンバーが関与している。まず『ヘヴン・フォー・エヴリワン』ではフレディ・マーキュリーがヴォーカルとして参加している(アルバムのアメリカ版ではバックヴォーカル、ヨーロッパ版ではリードヴォーカル)[14]。この曲はクイーンのアルバム『カインド・オブ・マジック』(1986年)の収録中に書かれたもので、後にマーキュリーがリードヴォーカルを務めたバージョンがアルバム『メイド・イン・ヘヴン』(1995年)に収録されたほか、シングルカットされて各国で大ヒットした[14][15][16]。また "Love Lies Bleeding (She Was A Wicked, Wily Waitress)" にはブライアン・メイがギターで参加した[11]。ヨーロッパ版のCDには、カセット・LPには未収録の追加トラックとして "The 2nd Shelf Mix"("Shove It" のリミックス)が収録されており[11]、アメリカ版には "Feel The Force" が追加トラックとして収められている[13]。大部分はテイラー本人のソロ企画でもあり(テイラーはバンド組織前にも数曲を書いていた)、このアルバムとシングルカットされた3枚はイギリスでチャートインし、いくつか好意的な批評も得た。 バンドは特にドイツで熱心に宣伝活動を行い、1988年のローズ・ドール(モントルー・ゴールデン・ローズ・フェスティバル)に参加するなど、数多くのテレビ出演を重ねた。バンドはアルバムを引っ提げてイギリス・ドイツでツアーを行ったが、テイラーはクイーンのアルバム『ザ・ミラクル』(1989年)制作のため小休止を取り、この期間ツアーは行われなかった[17]。 このアルバムからは、『カウボーイズ・アンド・インディアンズ』"Cowboys and Indians"、『ヘヴン・フォー・エヴリワン』、"Shove It"(日本語題『夢の大陸横断』)の3曲がシングルカットされた。1988年には別のシングル "Manipulator" も発売されているが[17]、この曲はどのアルバムにも収録されていない。この曲は、テイラーとエドニー、スティーヴ・ストレンジ (Steve Strange) の共作になっており、発売時点でテイラー以外の人物がクレジットされる唯一の曲でもあった。 第2アルバム『マッド・バッド・ロックンローラー』![]() クイーンによる1989年のアルバム『ザ・ミラクル』完成後、テイラーはザ・クロスの他メンバーと共にスタジオに戻り、第2アルバム『マッド・バッド・ロックンローラー』"Mad, Bad and Dangerous to Know"[18]の収録に取り掛かった。第1曲目の『トップ・オブ・ザ・ワールド・マ』"Top Of The World Ma" はバンド全員で創り上げられた曲だが、その他はマクレー・ヌーン・モスが共作した『パワー・トゥ・ラヴ』"Power To Love" を除き、メンバーが個々書き上げる方式がとられた。クレイトン・モスは自身が書いた『ベター・シングス』"Better Things" でリードヴォーカルを務め[18]、スパイク・エドニーはテイラーが書いた『ファイナル・デスティネーション』"Final Destination" でマンドリンを演奏した。『ファイナル・デスティネーション』、『ライアー』"Liar"、『パワー・トゥ・ラヴ』"Power To Love" はシングルとしても発売され、中でも『パワー・トゥ・ラヴ』は、バンドがイギリスで出した最後のシングルとなった。『ファイナル・デスティネーション』のB面には、テイラーの曲『マン・オン・ファイア』"Man On Fire" のライヴ演奏が収められ、ヌーンによる『ライアー』には、テイラーと共筆した新曲『イン・チャージ・オブ・マイ・ハート』"In Charge Of My Heart" が収められた。『ライアー』の12インチシングルとCDには、『ライアー』と『イン・チャージ・オブ・マイ・ハート』のエクステンデッド・リミックスも収録された。また『イン・チャージ・オブ・マイ・ハート』冒頭のインストゥルメンタル部分は、ツアーのオープニングにも使われた。エドニーによる『クローサー・トゥ・ユー』"Closer To You" はアメリカでの発売も考えられていたが、その話が再度俎上に上がることはなかった。この頃グループはイギリス市場での展開を諦めた様子で、アルバムを引っ提げたツアーはドイツ、オーストリア、スイス、イビサでのみ行われた。このようなツアーにしては珍しく、アルバム収録の全曲がライヴで演奏された。 第3アルバム『ブルー・ロック』テイラーの活動の主軸がクイーンの方へ移ったことで、第3アルバム『ブルー・ロック』(1991年)[19]では、他のメンバーが制作の主導権を握れるようになった。このアルバムでは多くをエドニーが書き、自身のみで3曲、共筆で4曲を完成させた[19]。第1曲目は今回もバンド全員で書き下ろしたもので、この曲『バッド・アティテュード』"Bad Attitude" は、1990年のクリスマスに行われたファンクラブパーティで途中まで書かれたものだった。このアルバムはEMIに発売を拒否され、売り上げがそこそこ堅調だったドイツで、EMIの支局にあたるEMIエレクトローラが発売した(但しプロモ盤はイタリアと日本で発売された)。発売日は1991年9月9日であった[20]。テイラーによる『ニュー・ダーク・エイジズ』"New Dark Ages" は、『マン・オン・ファイア』の新しいライヴ演奏版と合わせてドイツで発売されたほか、『ライフ・チェンジズ』"Life Changes" はB面に『ハートランド』"Heartland" を付けて発売された。しかしながら、これは1991年11月のフレディ・マーキュリーの死ですぐ中止された。ツアーはマグナムをサポートに迎えて行われたが、45分という短さで、ごく少数のブートレグが残されているだけである。またツアーは1ヶ月で20公演を行うという忙しいものだった。 1992年12月22日に行われたライヴでは、テイラーがかつて所属していたクイーンの前身バンド・スマイルが再結成した[21][22][23]。メイはスマイルでの2曲に加えて数曲を演奏した[24]。 バンド活動の破綻バンドは1993年に最後のショーを行った後解散した。テイラーはクイーンとしての活動を続けつつ、ソロアルバムも出している[25]。ドラマーのマクレーはテイラーのソロ・ツアーに帯同したほか、1992年に行われたフレディ・マーキュリー追悼コンサートではパーカッションを演奏した[26]。テイラーとエドニーはクイーン+ポール・ロジャースのツアーに参加したほか[27][28]、マクレーは舞台裏でサウンド・エンジニアやPro Toolsのエンジニアとして働いた[29]。1990年代後半には、エドニーが「SASバンド」(SAS Band; "Spike's All Stars") と銘打ったバンドを結成している。 2013年のリユニオン・コンサート2013年7月23日、スパイク・エドニーは自身のFacebookページで、ザ・クロスが同年12月7日に一夜限りのリユニオンを果たし、ギルフォードのG Liveでコンサートを行うと発表した[30]。ザ・クロスがコンサートを行うのは実に21年ぶりのことであった[31]。この時のセットリストは以下の通りだった[32]。
また、2014年にはクイーンの公式YouTubeアカウントにて、バンドのプロモーションビデオが公開された[33]。 メンバー
ツアー1988年:Shove It
1990年:Mad, Bad & Dangerous To Know
1991年:Blue Rock
ディスコグラフィスタジオ・アルバム
シングル
関連項目脚注注釈出典
参考文献
外部リンク |
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