シアカ・スティーブンス

シアカ・スティーブンス
Siaka Stevens


任期 1971年4月21日1985年11月28日
副大統領 ソリエ・イブラヒム・コロマ英語版
フランシス・ミナ英語版
首相 ソリエ・イブラヒム・コロマ
クリスチャン・アルシン・カマラ=テイラー英語版

任期 1981年1982年
事務局長 アブバカール・ディアビ・ウワタラ英語版

任期 1980年7月1日1981年6月24日
事務総長 エデム・コジョ

任期 1967年3月21日 – 1967年3月21日
1968年4月26日 – 1971年4月21日
女王 エリザベス2世
総督 ヘンリー・ジョサイア・ライトフット・ボストン英語版
バンジャ・テジャン・サイ英語版
クリストファー・オコロ・コール英語版(代行)

任期 1962年 – 1985年11月28日

任期 1962年5月1966年5月17日

任期 1957年5月 – 1962年
選挙区 ポート・ロコ地区英語版→)
西部地域都市地区英語版

シエラレオネ保護領
鉱山・土地・労働大臣
任期 1951年 – 1957年
首相 ミルトン・マルガイ

出生 (1905-08-24) 1905年8月24日
シエラレオネ保護領 南部州モヤンバ英語版
死去 (1988-05-29) 1988年5月29日(82歳没)
シエラレオネの旗 シエラレオネ 西部地域都市地区英語版フリータウン市
政党 全人民会議
出身校 フォーラー・ベイ・カレッジ
ラスキン・カレッジ英語版
配偶者 レベッカ・スティーブンス英語版
子女 11人
宗教 キリスト教

シアカ・プロビン・スティーブンス英語: Siaka Probyn Stevens, 1905年8月24日 - 1988年5月29日)は、シエラレオネ政治家全人民会議=APCの創立者)でシエラレオネの大統領(任期:1971年 - 1985年)。

来歴

1905年8月24日、現在の南部州モヤンバ英語版に生まれた[1]

1958年、9月にスティーブンスはミルトン・マルガイ首相の弟でもあり、彼の後継者のアルバート・マルガイと共にシエラレオネ人民党 (SLPP) を脱退し、人民国家党 (PNP) を結成した。

1960年にPNPとUPPが4月のロンドンで開催される憲法制定議会に向けて全政党による統一戦線 (UNF) に加わった。これにより国民連合の政権が誕生し、アルバート・マルガイが首相になると、スティーブンスは新たに独立前選挙維進運動 (EBIM) を結成するため連合を脱退した。その結果、彼はマルガイ首相のPNPと対立していきPNPから除外されるが、EBIMを全人民会議 (APC) に変更しAPCの議長になった。

1964年フリータウンの市長に当選。1967年3月17日、アルバート・マルガイ政権への一党国家の変更の失敗やマルガイの出身部族であるメンデ族中心主義の政策や腐敗した汚職の批難などの不満からマルガイ首相率いる与党シエラレオネ人民党 (SLPP) にスティーブンス率いる全人民会議 (APC) が総選挙に勝利してイギリス総督ヘンリー・ジョサイア・ライトフット・ボストン英語版より首相に任命される。ところが、その30分後にマルガイ同盟でもある軍のデヴィッド・ランサナ英語版准将が選挙結果に不満を持つマルガイ派の支持を受けてクーデターを起こし、スティーブンスとライトフットが逮捕された(3月21日)。その後3月23日チャールズ・ブラカ中佐らのクーデターでランサナが失脚し、アンドリュー・ジャクソン=スミス中佐の指導下で「国家改革協議会 (NRC)英語版」が樹立された。スティーブンスはギニアへ亡命したが、スミス軍事政権の腐敗と独裁への批判が高まり、1968年4月17日ジョン・アマドゥ・バングラ英語版准将らがスティーブンスを支持してクーデターを起こし、NRC政権を打倒した。帰国したスティーブンスを新首相として、APCとSLPPが連合政権を樹立することとなった。

大統領就任以降

レオーネ・イタリア大統領と会談するスティーブンス(1973年)

1971年3月、スティーブンス暗殺計画が発覚し、バングラ将軍は逮捕され、6月に処刑された。スティーブンスはギニアと同盟して独裁を強化した。前首相アルバート・マルガイは1966年に一党共和制を主張していたが、当時、反マルガイ派であったスティーブンスはマルガイ政権の一党共和制に反対していた。しかし、スティーブンス政権の元でシエラレオネは共和制に移行し、4月21日クリストファー・オコロ・コールに代わり、スティーブンスは大統領に就任。

1976年に大統領に再選され、1978年にスティーブンスは1党共和制による独裁政権をはじめる。しかし、国有化したマランパ鉱山は閉山に追い込まれ、ダイヤモンドの国際価格の下落もあり、経済は急速に悪化した。独裁政権は腐敗の一途をたどり、民衆のデモが続発した。貧困の拡大と政府への不満は、シエラレオネ内戦の原因となった。1985年に大統領候補として再出馬せず、軍人のジョセフ・サイドゥ・モモ将軍がスティーブンスの後継者として大統領になった。1987年3月には、モモに対するスティーブンス派のクーデター計画が失敗した。

脚注

  1. ^ SIAKA PROBYN STEVENS”. Sierra Leone.org. 2021年6月15日閲覧。
公職
先代
クリストファー・オコロ・コール英語版
(代行)
シエラレオネの旗 シエラレオネ共和国大統領
初代:1971年4月21日1985年11月28日
次代
ジョセフ・サイドゥ・モモ
先代
アルバート・マルガイ
シエラレオネの旗 シエラレオネ自治領首相
第3代:1967年3月21日1967年3月21日
1968年4月26日1971年4月21日
次代
デヴィッド・ランサナ英語版
(軍事政権)
先代
ジョン・アマドゥ・バングラ英語版
国家改革協議会英語版
次代
ソリエ・イブラヒム・コロマ英語版
党職
新設 全人民会議代表
初代:1962年1985年11月28日
次代
ジョセフ・サイドゥ・モモ
外交職
先代
ニャシンベ・エヤデマ
トーゴ
西アフリカ諸国経済共同体議長
第5代:1981年1982年
次代
マチュー・ケレク
ベナン人民共和国
先代
レオポール・セダール・サンゴール
セネガル(代行)
アフリカ統一機構議長
第19代:1980年7月1日1981年6月24日
次代
ダニエル・アラップ・モイ
ケニア
Prefix: a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

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