Arms:Quarterly: 1st and 4th grandquarters, quarterly: 1st and 4th, Argent a Lion passant guardant Gules imperially crowned Or; 2nd and 3rd, Argent a Cross engrailed Sable (Ogilvie); 2nd and 3rd grandquarters, Gules three Antique Crowns Or (Grant) Crests:Dexter: A Lady richly attired from the waist upwards proper wearing a pointed fifteenth-century Head-dress Argent (Ogilvie); Sinister: A burning Hill between two Scots Pine Saplings proper (Grant) Supporters: Dexter: A Lion rampant guardant Or armed Gules; Sinister: A Savage or Naked Man bearing upon his shoulder a Club proper and wreathed about the head and middle with Laurel Vert
オグルヴィ氏族(英語版)の一員ウォルター・オグルヴィ(?-1626)は1615年に「デスクフォードのオグルヴィ卿(Lord Ogilvy of Deskford)」に叙せられた[1]。これがシーフィールド系統オグルヴィ氏族の爵位叙爵の初出にあたる。
その子のジェームズ(?-1653)は主教戦争の休戦に尽力した人物で、王党派と盟約派(ハントリー侯爵(英語版)と第5代モントローズ伯爵)との仲を取り持っている[2]。その彼は1638年2月20日にスコットランド貴族として「フィンドレイター伯爵(Earl of Findlater)」及び「デスクフォード卿(Lord Deskford)」を授けられた[2][3]。この叙爵は一族の長たるジェームズ・オグルヴィ(英語版)に先んじて行われたために同人の激しい怒りを買っている[注釈 1][2]。また、伯爵には男子がなかったため、娘婿パトリック・オグルヴィに相続させるべく、1641年に爵位を一旦爵位を返上して再叙爵(ノヴォダマス)を受けた[3]。そのため、以降の爵位継承はパトリック(2代伯)の子孫によって続く。
2代伯の孫の4代伯ジェームズ(1663–1730)はスコットランド弁護士会(英語版)に属した弁護士で、のちに栄達してスコットランド法務次官(英語版)やスコットランド大法官(英語版)を務めている[5]。爵位の面でも上昇し、1698年6月24日に「シーフィールド子爵(Viscount Seafield)」及び「カレンのオグルヴィ卿(Lord Ogilvy of Cullen)」を授けられた[3]。続いて1701年には、「シーフィールド伯爵(Earl of Seafield)」、「リードヘイヴン子爵(Viscount Reidhaven)」及び「デスクフォード=カレンのオグルヴィ卿(Lord Ogilvy of Deskford and Cullen)」に叙されている[注釈 2][3][7][8]。一連の叙爵の背景には、スコットランド合同を推進する政府がオグルヴィの政治力を見込んで栄達させたという思惑があった[9]。
しかし、7代伯ジェームズが子のないまま死去すると、フィンドレイター伯爵位、デスクフォードのオグルヴィ卿位、デスクフォード卿位は継承者を欠き休止した[1]。他方、女系継承可能なシーフィールド伯爵位は又従弟の第8代準男爵サー・ルイス・グラント(英語版)が相続した[11]。この際に、グラント家は同じく女系継承によって「(コフーンの)準男爵位(Colquhoun baronetcy, of Colquhoun)」を世襲していたことから、この準男爵位も伯爵位に従属することとなった[11]。また、ルイスに嗣子はなかったことから、弟フランシス(6代伯、1778–1853)、その子ジョン(7代伯、1815–1881)へと伯爵位は継承された。
ジョン・オギルヴィ=グラント(英語版)(1815-1881)は伯爵位継承後、1858年8月14日に連合王国貴族として「インヴァーネス=マリ州ストラスペイのストラスペイ男爵(Baron Strathspey, of Strathspey in the Counties of Inverness and Moray)」に叙された[11][12]。ゆえに伯爵家は自動的に英貴族院に議席を得ることとなったが、彼の嫡男イアン(8代伯、1851-1884)は生涯未婚のまま死去したため、男爵位は廃絶となった[11]。