ジェイソン・プラト
ジェイソン・プラト(Jason Plato、1967年10月14日 - )は、イギリス・オックスフォード出身のレーシングドライバーである。一部では、プレイトとも表記される。 経歴カートで成功を収めた後、1991年にイギリスフォーミュラ・ルノーでシリーズチャンピオンを獲得。イギリスF3にも1992年に参戦。このレースでプラトはジル・ド・フェラン、フィリップ・アダムス、ケルヴィン・バート、マルク・ホーセンス、ペドロ・ディニスなど後に様々なレースで活躍する事になる多くのドライバーと対戦した。F3000にステップアップする機会を得ることはできなかったが、1996年にルノー・スパイダー・チャンピオンシップに出場してシリーズチャンピオンに輝く。 この活躍が、イギリスツーリングカー選手権(BTCC)に参戦するウィリアムズ・ルノーチームの目に止まり、1997年シーズンに向けてのテストを受けることとなった。この時プラトの他にドライバー候補として上がっていたのは元F1ドライバーのジャンニ・モルビデリ[注釈 1]とジャン=クリストフ・ブイヨンだった。テスト後、ブイヨンが選ばれる事となったが、プラトは自らウィリアムズのファクトリーに出向いてフランク・ウィリアムズに直談判。プラトの熱意はフランク・ウィリアムズにしっかり伝わり、晴れてウィリアムズ・ルノーからBTCCデビューを果たした[1]。 BTCCルーキーのプラトだったが、ルノー・ラグナを乗りこなしてみせ、開幕戦ドニントン・パークでいきなり2位入賞。デビューイヤーながら2勝を記録してチームメイトでこの年チャンピオンを獲得したアラン・メニュ、前年度チャンピオンだったアウディのフランク・ビエラに次ぐランキング3位を獲得[2][3]。ウィリアムズ・ルノーはチームタイトルと製造者部門のタイトルを獲得し、三冠を達成した。 1998年になるとボルボ、日産、ホンダが力をつけ始めてルノーの優位性は薄れたが、この年も1勝してランキングもメニュに次ぐシリーズ5位と安定した成績を残し、日産が強かった1999年はメニュがフォードに移籍したためプラトがエースドライバーに昇格。1997年のシートを争ったジャン=クリストフ・ブイヨンをチームメイトに迎えた。やや苦戦気味だったブイヨンに対してこの年もランキング5位と結果を残し、シルバーストーンでウィリアムズ・ルノーチームに最後の勝利をもたらした。 2000年はルノーの撤退によりボクスホールに移籍。ベクトラをドライブして再びランキング5位を獲得する。2001年からBTCCは、新しい規定で低コストのマシンで行われることとなるが、この年チームメイトのイヴァン・ミュラーとのタイトル争いを制して初のBTCCシリーズチャンピオンとなる[4]。 2002年はアメリカのNASCAR参戦を目指してイギリスを中心にヨーロッパ各国のサーキットで行わているASCARレーシングシリーズに参戦。ランキング3位を獲得したが、NASCAR参戦は実現しなかった。2003年はセアトのドライビングコーチに専念し、翌年このセアトからBTCCに復帰してシリーズ3位を獲得。2008年まで在籍したが、2006年と2007年はシリーズ2位、2008年はシリーズ3位と好成績を残すもあと一歩シリーズチャンピオンには届かなかった。また、2005年は世界ツーリングカー選手権(WTCC)にもセアトからBTCCと並行する形で参戦した。 2009年はルノー時代のライバルチームだった日産チームの運営を行っていたRMLが運営するシボレーに移籍。ラセッティをドライブしてランキング2位を獲得すると、マシンをクルーズに変更した翌年遂に自身2度目のシリーズチャンピオンを獲得した。その後もMGやフォルクスワーゲンなどで参戦するチームに在籍し、チャンピオン争いを展開。2016年はスバルのワークスチームに移籍してスバル・レヴォーグで参戦した[5]。現在も第一線で活躍しており、BTCCには20年以上に渡って参戦を続けたが、2022年シーズンを以てシリーズから撤退し、別のシリーズ参戦を模索するという[6]。 自動車番組フィフス・ギアにも出演して活躍している他、自伝を出版するなど執筆活動も行っている[7][8]。 レース戦績イギリス・フォーミュラ3選手権
イギリスツーリングカー選手権‡ レース再開前にリタイアした。 * ドライバーが少なくとも1周レースリードラップを記録したレース (リードラップ記録者には1ポイントが与えられる、2002年はフィーチャーレースのみ、2003年から全レースで適用)。 世界ツーリングカー選手権
バサースト1000
* スーパーツーリング 車両によるレース 脚注
注釈
|
Portal di Ensiklopedia Dunia