ジョンズタウン (競走馬)
ジョンズタウン(Johnstown、1936年 - 1950年)とは、アメリカ合衆国のサラブレッドの競走馬、および種牡馬である。1939年のアメリカクラシック二冠馬。1992年にアメリカ競馬殿堂入りを果たした。 経歴若駒時代1936年に、アーサー・ボイド・ハンコックのクレイボーンファームで生産されたサラブレッドの競走馬である。のちにウィリアム・ウッドワードに購入され、彼の持つベルエアースタッド名義で競走馬として登録された。馬名はペンシルベニア州の町ジョンズタウンに由来する[3]。 ウィリアムの学友でもあったジム・フィッツシモンズ調教師に預けられ、以後の21戦すべてでジェームズ・スタウトが騎乗した[2]。デビュー戦こそ落とすものの、4月のジャマイカ競馬場で行われた2戦目で初勝利を挙げている[2]。その後はブリーダーズフューチュリティ優勝など一線級で活躍、この年12戦7勝の成績を挙げた。しかし、後のアメリカ殿堂馬エイトサーティや、ホープフルステークス優勝馬のエルチコ[注 1]などに度々破れており、この時点では超一流と呼べるほどの馬ではなかった。 クラシック路線3歳シーズンは4月から始動、初戦となった4月15日のポーモノクハンデキャップでは古馬を相手にしながら勝利を手にした[c 1]。続くジャマイカ競馬場での一般戦をも勝ち、前年末から続く連勝を5に伸ばした。ケンタッキーダービーの前哨戦・ウッドメモリアルステークスでは2着馬を8馬身突き放す圧勝を見せ、フィッツシモンズは同競走4連覇を達成した。 ケンタッキーダービーでは単勝オッズ1.6倍という支持を集めて、断然の1番人気に推された[1][4]。スタートこそよくなかったものの、前へと駆け出してエルチコを2番手に抑え、先頭を独走。ずるずる後退するエルチコを尻目に、1マイル(約1609メートル)を過ぎたあたりで鞍上のスタウトの合図を受け、その差をどんどんと広げていった。最終的には2着のシャルドンに8馬身の差をつけてゴール、圧勝劇でその人気に応えた[1][5]。 翌戦の三冠第2戦・プリークネスステークスは重馬場での開催となり、これはジョンズタウンに不利に働き、優勝したシャルドンから大きく離されて5着に敗退[c 1]、連勝記録も7でストップした[2]。その2週間後に迎えたウィザーズステークスでは、馬場にも恵まれて6馬身差で快勝している[c 1][2]。6月3日に行われた三冠最終戦のベルモントステークスにはシャルドンが出走しておらず、ジョンズタウンは楽に走りながらも、2着馬に5馬身差をつけて優勝し、クラシック二冠を達成した[c 2][2]。 3歳後半ベルモントステークスの2週間後に迎えたドワイヤーステークスにおいて、ジョンズタウンとシャルドンは再戦を果たした。両馬はスタート直後からハナの奪い合いを演じたが、前半の3ハロンが過ぎたあたりでジョンズタウンが先頭を確保すると、そのまま終始譲らずにゴール、2着馬サンラヴァーに1馬身差をつけて勝利を飾った[c 2]。このときの1分48秒40という記録は、ディスカヴァリーが保持していたベルモントパーク競馬場9ハロンのトラックレコードとタイ記録であった[c 2]。 7月に入って出走したアーリントンパーク競馬場でのクラシックステークスでもシャルドンとの対戦となった。ジョンズタウンはここでも先頭を奪うことに成功したが、1マイルを過ぎたあたりで疲れた様子を見せ始め、シャルドンとサンラヴァーの2頭に交わされて3着に敗れた[c 2]。この競走で故障を発生し、しばらくは復帰を目指して調整されていたものの、結局は競走に戻ることなく引退に至った[c 2]。 引退後引退後は故郷のクレイボーンファームで繋養され[4]、1940年より種牡馬として活動を始めた。その成績は現役のころに比べると物足りないものとなった。代表産駒としては1946年のケンタッキーオークスに勝利したファーストページ[6]がいる。またCCAオークス3着馬のセグラが母としてナシュアを出した[4]。 ジョンズタウンは14歳となった1950年に脳溢血が元で死亡[3]、その遺骸はクレイボーンファームの墓地に埋葬された[2]。のちの1992年、アメリカ競馬名誉の殿堂博物館はその競走成績を評価して、ジョンズタウンを殿堂馬の一頭として加えた[2][4]。 評価おもな勝鞍※当時はグレード制未導入
表彰
血統表
脚注参考文献
出典
注釈
外部リンク |
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