ジョージ・ボイル (第6代グラスゴー伯爵)第6代グラスゴー伯爵ジョージ・フレデリック・ボイル(英語: George Frederick Boyle, 6th Earl of Glasgow、1825年10月9日 – 1890年4月23日)は、イギリスの政治家、スコットランド貴族。オックスフォード運動を支持して、その思想を広めるためにスコットランドで聖堂を建てた[1]。政治家としては庶民院議員(1865年2月 – 7月)、選挙名簿管理長官(1879年 – 1890年)を歴任した[2]。 生涯第4代グラスゴー伯爵ジョージ・ボイルと2人目の妻ジュリア(Julia、旧姓シンクレア(Sinclair)、1796年6月16日 – 1868年2月19日、初代準男爵サー・ジョン・シンクレアの娘)の息子として、1825年10月9日にエディンバラで生まれた[3][2]。1844年5月31日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1847年にB.A.の学位を、1852年にM.A.の学位を修得した[4]。 1847年2月に第5代ダファリン=クランボイ男爵フレデリック・ブラックウッド(後の初代ダファリン=エヴァ侯爵)とともにオックスフォードからジャガイモ飢饉の最中のアイルランドに向かい、ダブリンとコーク県スキバリーンに滞在したのち、3月にそのときの見聞に関する著作を出版した[5]。 1847年1月23日にコルネット(陸軍少尉)としてエアシャー・ヨーマンリー騎兵隊に入隊[6]、1850年10月23日に中尉に昇進した後[7]、1852年8月に引退した[8]。 1854年12月26日、ビュートシャー副統監に任命された[9]。 1865年2月16日、ビュートシャー選挙区の補欠選挙で保守党候補として205票を得て、自由党候補のジェームズ・ラモント(190票)を破って当選したが、同年の総選挙では192票対203票でラモントに敗れた[10]。 1869年3月11日に異母兄ジェームズが死去すると、グラスゴー伯爵位を継承した[3]。 1879年2月21日に選挙名簿管理長官に任命され[11]、1890年に死去するまで務めた[2]。 1883年時点でエアシャーに25,613エーカーの、ファイフシャーに5,625エーカーの、レンフルーシャーに4,579エーカーの、ビュートシャーに1,833エーカーの、ダンバートンシャーに175エーカーの領地(合計で年収34,588ポンド相当)を所有していた[3]。 1890年4月23日にエディンバラのパーマストン・プレース32号(32 Palmerston Place)で死去、30日にミルポートの諸島聖堂に埋葬された[3][1]。グラスゴー伯爵位は親族のデイヴィッド・ボイル(第2代グラスゴー伯爵ジョン・ボイルの次男パトリック(1798年没)の曽孫)が継承、従属爵位のロス男爵位は廃絶した[3]。 宗教在学中よりオックスフォード運動を支持し、以降生涯にわたってスコットランドでオックスフォード運動の思想であるトラクト主義(Tractarianism)を広めた[1]。1847年に第18代フォーブス卿ウォルター・フォーブスとともにパースでセント・ニニアン聖堂を建て、1849年にはグレート・カンブレー島で諸島聖堂(Cathedral of The Isles)を建てた[1]。 イングランド国教会とローマ・カトリック教会の再統合を支持して、1863年に『ユニオン・レビュー』誌(Union Review)に出資するほどだったが、宗教への多額の出費に地価の下落も相まって、1885年に破産を宣告された[1]。 家族1856年4月29日、モンタギュー・アバークロンビー(Montagu Abercromby、1835年8月11日[3] – 1931年4月22日、第3代アバークロンビー男爵ジョージ・ラルフ・アバークロンビーの娘)と結婚、2女をもうけた[12]。
出典
外部リンク
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