ジルベルト・シモーニ
ジルベルト・シモーニ(Gilberto Simoni、1971年8月25日-)は、イタリアのトレンティーノ=アルト・アディジェ州・トレント県のジョーヴォ出身の自転車プロロードレース選手。 ジロ・デ・イタリアでは総合優勝2回、2位1回、3位4回という輝かしい成績を誇り、ステージレースを中心に活躍した世界トップクラスのクライマー。2006年から始めたマウンテンバイク競技でも好成績を収めている。 経歴1993年のベビー・ジロ(アマチュア版ジロ・デ・イタリア)優勝とイタリア選手権アマチュアチャンピオンの実績を引っさげ、翌1994年にプロへと転向。しかし、一向に勝利を挙げることができず、毎年のように移籍を繰り返す苦難の日々が続いた。 しかし1999年のジロ・デ・イタリアでステージ1勝を挙げ、総合でも3位に入り、才能が開花。2000年からはランプレ・ダイキンのエースとしてジロ・デ・イタリアで再び総合3位。ブエルタ・ア・エスパーニャでも1勝を挙げた。 そして2001年はジロ・デ・イタリアで2位のアブラハム・オラーノに7分以上の差をつけて総合優勝を達成。ジャパンカップなど数々のレースでも活躍を見せた。 続く2002年のジロ・デ・イタリアでも第11ステージで勝利を飾るが、コカイン使用疑惑により途中で出場停止となってしまう[1]。 だが2003年には雪辱を期して挑んだジロ・デ・イタリアでステージ3勝。ステファノ・ガルゼッリやヤロスラフ・ポポヴィッチらを抑え2回目の総合優勝を果たし、ポイント賞マリア・チクラミーノも獲得[2]。さらにツール・ド・フランスでもステージ優勝を達成した。 2004年のジロ・デ・イタリアでも第3ステージで勝利するなど、好調だったが、このときはチームメイトでシモーニのアシストを務めていたダミアーノ・クネゴが絶好調。陽動のために先行させたクネゴに大差をつけられた末、最終的にステージ4勝をあげての総合優勝を許してしまう。シモーニも総合3位に入る活躍を見せたとはいえ、これによりチーム内には2人のエースが存在する状態になり、クネゴとの関係は微妙なものになった。ツール・ド・フランスでは久しぶりに復活したチームタイムトライアルのゴール直前で落車。ルールを熟知していなかった監督の指示によりシモーニを待たなかったチームメイトから大きく遅れてゴールし、一人だけ大きくペナルティタイムを受けるという屈辱を味わった[3]。 2005年はクネゴが春先から不調だったことを受けて、ジロ・デ・イタリアでは単独エースとして活躍。パオロ・サヴォルデッリとの総合優勝争いの末、総合2位に入った。しかし相変わらずクネゴとの不仲がささやかれるなか、2006年にサウニエルデュバル・プロディールへ移籍。クネゴとは袂を分かち、ジロ・デ・イタリアで4回目となる総合3位に入り、7度目の表彰台に登った。 2007年のジロ・デ・イタリアでは第17ステージで距離10km、平均斜度11.9%、最大斜度22%という激坂、ゾンコラン山への山頂ゴールを制してステージ優勝し、総合では4位となる。 2008年からは、プロフェッショナルコンチネンタルチームのセッラメンティ・ディキジョヴァンニに移籍。ジロ・デ・イタリアでは第19ステージでの遅れが響いて総合10位に終わるものの、モルティローロ峠を越える第20ステージでステージ2位に入るなど、健在ぶりを示した。 2009年のジロ・デ・イタリアでは第15ステージで大きく遅れ、総合24位に終わった。 2010年、古巣のランプレ・ファルネーゼ=ヴィーニへの復帰が噂されていたが[4]、4月19日にチームへの加入が発表され[5]、同時にジロ・デ・イタリア限りでの現役引退も発表された。 現役最後のレースとなったジロ・デ・イタリアでは、チマ・コッピのガヴィア峠を越える第20ステージでステージ優勝することになるヨハン・チョップと共に一時先頭を走行するなどの見せ場を作り、総合69位で完走して現役生活に別れを告げた。 マウンテンバイク競技![]() 2006年からマウンテンバイク競技にも参戦しており、初のレースとなったランピロンガのクラシックカテゴリーでいきなり優勝。イタリア選手権マウンテンバイクマラソンでも優勝を遂げている。 2007年には世界選手権マウンテンバイク・マラソンXCで6位に入っており、2008年は北京オリンピックMTB種目への出場を目指していた。 エピソード
所属チーム
主な成績グランツール
ステージレースワンデイレース
マウンテンバイク
脚注
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia