トマス・エジャートン (第2代ウィルトン伯爵)![]() 第2代ウィルトン伯爵トマス・エジャートン(英語: Thomas Egerton, 2nd Earl of Wilton GCH PC、1799年12月30日 – 1882年3月7日)、出生名トマス・グローヴナー(Thomas Grosvenor)は、イギリスの貴族、政治家。第1次ピール内閣期に宮内長官(在任:1835年1月 – 4月)を務めた[1]。 生涯![]() 初代ウェストミンスター侯爵ロバート・グローヴナーと妻イリナ(Eleanor、旧姓エジャートン(Egerton)、1770年7月21日 – 1846年11月29日、初代ウィルトン伯爵トマス・エジャートンの娘)の次男として、1799年12月30日にミルバンク・ハウス(Milbank House)で生まれ、セント・ジョンズ教会で洗礼を受けた[1][2]。1814年9月23日に母方の祖父が死去すると、ウィルトン伯爵位の特別残余権(special remainder)に基づき爵位を継承した[1]。ウェストミンスター・スクールで教育を受けた後[1]、1817年10月31日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[3]。 1821年11月27日、国王の認可状を受けて姓をグローヴナーからウィルトン伯爵家の姓であるエジャートンに改めた[1][4]。 1834年6月10日、オックスフォード大学よりD.C.L.の学位を授与された[3]。 保守党内閣である第1次ピール内閣では1835年1月2日に宮内長官に[5]、1835年2月18日に枢密顧問官に任命され[6]、同年4月に宮内長官を辞任した[7]。1835年、ロイヤル・ゲルフ勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[1]。 1840年11月7日、女王所有タワー・ハムレッツ民兵隊隊長に任命された[8]。1852年9月11日、タワー・ハムレッツの副統監に任命された[9]。1862年2月19日、タワー・ハムレッツ民兵隊の軽歩兵連隊の名誉連隊長に任命された[10]。 1842年9月24日、ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世にガーター勲章を授与するためのガーター授与使節団長に任命され[11]、同日に信任状を受けた[12]。10月2日にドレスデンに到着して、4日に信任状を奉呈した後、8日にフリードリヒ・アウグスト2世にガーター勲章を授与、12日にドレスデンを発った[12][13]。フリードリヒ・アウグスト2世はウィルトン伯爵にルーの王冠勲章を授与した[1]。 1882年時点でランカシャーに8,013エーカーの、スタッフォードシャーに853エーカーの、ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャーに775エーカーの、サマセットに196エーカーの、レスターシャーに33エーカーの、シュロップシャーに1エーカーの領地を所有し、合計で年収31,234ポンド相当だった[1]。 1882年3月7日にレスターシャーのエジャートン・ロッジ(Egerton Lodge)で死去、息子アーサー・エドワード・ホランド・グレイが爵位を継承した[1]。 私生活家族![]() 1821年11月29日、メアリー・マーガレット・スミス=スタンリー(Mary Margaret Smith-Stanley、1801年3月23日 – 1858年12月16日、第12代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーの娘)と結婚[1]、5男7女をもうけた[14]。
2人は同時代の社交界ではつまらない夫婦と評され、メアリーの異母姉は1831年に「ウィルトン夫婦は愛想よくしようとする努力をしていない。レディ・ウィルトンは松の板(a deal board)ほどの感性もなく、彼女と住む人々も結構つまらないと感じた(a deal bored)だろう」と酷評している[16]。一方でヒートン・パークで頻繁にパーティーを開催するなど豪奢な生活を送っており、初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー、政治家ベンジャミン・ディズレーリ、女優ファニー・ケンブル、サーカス芸人トム・サム将軍がよくヒートン・パークを訪れた[16]。1858年にメアリーが死去した後はヒートン・パークよりメルトン・モウブリーやロンドンの邸宅で過ごすことが多くなり、1866年にはヒートン・パークを売却しようとして失敗している[16]。 1863年9月12日、スーザン・イザベラ・スミス(Susan Isabella Smith、1916年1月23日没、エルトン・スミスの娘)と再婚したが、2人の間に子供はいなかった[1][15]。 スポーツ![]() 政治よりスポーツに興味を持ち、多くのヨットを所有したことで知られる[1]。1844年7月にマージー・ヨット・クラブ(Mersey Yacht Club、同年9月に特許状を得てロイヤル・マージー・ヨット・クラブに改名)が設立されたときにも会員になった[17]。 領地のヒートン・パークでは1827年に競馬レースのヒートン・パーク・レース(Heaton Park Races)を創設した[16]。 出典
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia