トマス・チャムリー (初代ディラミア男爵)![]() 初代ディラミア男爵トマス・チャムリー(英語: Thomas Cholmondeley, 1st Baron Delamere、1767年8月9日 ベックナム – 1855年10月30日 ロンドン)は、イギリスの政治家、貴族。1796年から1812年まで庶民院議員を務め、1821年戴冠式記念叙勲で男爵に叙された[1]。 生涯庶民院トマス・チャムリー(1726年6月24日 – 1779年6月2日)と妻ドロシー(Dorothy、旧姓クーパー(Cowper)、1786年5月25日没、エドマンド・クーパーの娘)の長男として[2]、1767年8月9日にベックナムで生まれた[1]。1779年に父が死去すると、その遺産を継承した[3]。1781年にミドル・テンプルに入学[3]、1785年10月6日にケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジに入学した[4]。 1794年にエンサイン(歩兵少尉)としてイギリス陸軍の歩兵第90連隊に入隊[3]、同年9月30日にグロスター公ウィリアムの歩兵連隊の中尉に[5]、10月11日に大尉に[6]、11月4日に少佐に昇進した[7]。同年に中佐への名誉進級辞令を受けたが、1798年に一旦半給になった[3]。1799年8月13日、歩兵第4連隊に転じた[8]。同年のオランダ遠征に参戦したが、10月6日のアルクマールの戦いで負傷して捕虜にされた(のちに釈放[3])。1803年11月1日、Delamere Forest Rifleman連隊の指揮官に任命された[9]。 1792年から1793年までチェシャー州長官を務めた[1][10]。1796年イギリス総選挙において、チェシャー選挙区の与党議員第5代準男爵サー・ロバート・ソールズベリー・コットンが突如引退を発表すると、チャムリーはその後任に名乗りを上げて立候補、当選を果たした[11]。同時代の噂によれば、シティ・オブ・チェスター選挙区の有力者である初代グローヴナー伯爵リチャード・グローヴナーはチャムリーがチェスターの選挙戦を攪乱しないよう、チェシャーでチャムリーを支持したという[11]。その後、チャムリーは1802年、1806年、1807年の総選挙で再選した[11]。チャムリーの選挙活動中の演説は親族から賞賛されたが、庶民院での演説は少なく、登院自体がまばらだった[3]。投票記録では概ね小ピットを支持したとされたが、その後の挙国人材内閣(1806年 – 1807年)、第2次ポートランド公爵内閣(1807年 – 1809年)期における投票記録は全くなかった[3]。パーシヴァル内閣期(1809年 – 1812年)においてはワルヘレン遠征をめぐる採決で内閣を支持、カトリック解放と革税法案(leather tax bill)には反対票を投じた[3]。 1812年イギリス総選挙では登院のまばらさが問題になった[3]。大方の予想では選挙戦になっても勝てるとされたが、妻や家族から「本物の喜びをもたらさない事柄のために」(that which gives him no real pleasure)家計の破滅を招かないよう説得された[3][11]。チャムリーは叙爵をもって庶民院議員としての経歴を終わらせようとしたが、申請が却下され、結局何もないまま議員を退任した[3][11]。 1821年戴冠式記念叙勲において、1821年7月17日に連合王国貴族であるチェシャーにおけるヴェイル・ロイヤルのディラミア男爵に叙された[1][12]。子孫の第5代ディラミア男爵ヒュー・チャムリーはこの叙爵に辛辣な評価を下しており、(初代男爵は)「爵位があればすごそうと思うばかだった。彼は5,000ポンドを支払って、安い買い物をしたなと考えたが、唯一の問題は平価が1,200ポンドであることだった」(He was an idiot who decided it would be impressive to have a peerage. He thought he had a bargain when he paid £5,000 for it. The only problem was that the going rate was £1,200)と述べた[13]。 貴族院では最後まで1832年の第1回選挙法改正に反対して、チェシャーからの反対請願を提出したほか[14]、トーリー党貴族の大半が投票しなかった法案の第三読会(1832年6月4日)においても反対票を投じた[1]。その後、1845年に穀物法廃止に反対票を投じたが、ロバート・ピールに追随して態度を変え、1846年に穀物法廃止に賛成票を投じた[1]。 長い闘病生活を経て、1855年10月30日にハイド・パーク近くのヘレフォード・ストリート(Hereford Street)で死去した[1]。息子ヒューが爵位を継承した[1]。 家族1810年12月17日、ヘンリエッタ・エリザベス・ウィリアムズ=ウィン(Henrietta Elizabeth Williams-Wynn、1786年2月6日 – 1852年8月18日、第4代準男爵サー・ワトキン・ウィリアムズ=ウィンと妻シャーロットの間の娘)と結婚[1]、4男1女をもうけた[2]。
結婚まではギャンブル好きだったが、結婚を機にギャンブルのクラブから脱退、借金も返済したという[3]。 出典
外部リンク
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