トマス・バークリー (第7代バークリー子爵)![]() 第7代バークリー子爵トマス・ジェームズ・バークリー(英語: Thomas James Bulkeley, 7th Viscount Bulkeley、1752年12月12日 – 1822年6月13日)は、イギリスの貴族、政治家。1774年から1784年まで庶民院議員を務めた。 生涯第6代バークリー子爵ジェームズ・バークリーとエンマ・ローランズ(Emma Rowlands、1770年8月18日没、トマス・ローランズの娘)の息子として、1752年12月12日に生まれた[1]。父の死後に生まれたため、出生時点でバークリー子爵の爵位を継承した。1764年から1769年までウェストミンスター・スクールで教育を受けた後[2]、1769年7月12日にオックスフォード大学ジーザス・カレッジに入学、1773年3月18日にM.A.の学位を、1810年7月3日にD.C.L.の学位を修得した[3]。また、ジョージ・グレンヴィル(後の初代バッキンガム侯爵)とともにグランド・ツアーに出た[2]。 1771年より北ウェールズ会計係(Chamberlain of North Wales)を務め、1774年イギリス総選挙ではアングルシー選挙区から出馬して当選した[2]。バークリー子爵が最初に投票したのは1775年2月22日にジョン・ウィルクスの動議を支持したときで、最初に演説したのは同年3月15日に議員の辞任を許可する議案に賛成したときだった(与党はこの議案に反対した)[2]。その後、1779年頃に野党に転じたが、1780年イギリス総選挙で再選を果たし、1781年2月にエドマンド・バークの議案を支持して演説し、12月にアメリカ独立戦争に関する野党の議案に賛成票を投じた[2]。同じく1781年12月にカーナーヴォンシャー統監に任命された[2](1822年に死去するまで在任[1])。そして、1782年2月から3月にかけて政府の議案に反対票を投じ、ノース内閣の倒閣に貢献した[2]。続く第2次ロッキンガム侯爵内閣とシェルバーン伯爵内閣を支持し、フォックス=ノース連立内閣には反対し、チャールズ・ジェームズ・フォックスの東インド法案に反対票を投じた[2]。 第1次ピット内閣では小ピットを支持、小ピットからグレートブリテン貴族への叙爵を約束されたため1784年イギリス総選挙で出馬しなかった[2]。1784年5月14日[1]、アングルシー州におけるビューマリスのバークリー男爵に叙され、アイルランド貴族であるバークリー子爵と違いグレートブリテン貴族だったため、貴族院に移籍することとなった。以降も小ピットを支持したが、第1次小ピット内閣が倒れるとホイッグ党に復帰した[1]。 1822年6月13日にエングルフィールド・グリーンで急死、爵位はすべて断絶した[1]。 家族1777年4月26日、エリザベス・ハリエット・ウォレン(Elizabeth Harriet Warren、1826年2月23日没、サー・ジョージ・ウォレンの娘)と結婚したが[1]、2人の間に子供はいなかった[2]。結婚に伴い、バークリー子爵は1802年9月20日に認可状を得てトマス・ジェームズ・ウォレン=バークリーに改名した[1]。 出典
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