ネストル・クコリニク
ネストル・ヴァシーリエヴィチ・クコリニク(ロシア語: Нестор Васильевич Кукольник, 1809年9月8日 - 1868年12月20日)は、ロシア帝国の詩人、劇作家である[1]。カルパティア・ルシン系の旧貴族の家系に生まれ、サンクトペテルブルクで育った[1]。ロマン主義期の作家として注目を集めた[1]。特に、作曲家ミハイル・グリンカとの協業で知られ、ロシア初の本格的オペラとされる『皇帝に捧げた命』の台本制作にも携わった[2][3]。最晩年はアゾフ海沿岸の都市タガンログに移住し、同市の教育と文化振興に尽力した[1]. 生涯1809年9月8日、ロシアのサンクトペテルブルクにてルシン人で教師、旧貴族であったヴァシーリー・グリゴリエヴィチ・クコリニクの元に生まれる。父はウィーン大学を卒業後、サンクトペテルブルクの教育機関で教鞭をとっていた[1]。クコリニクは父が創設に関与したニージン高等科学ギムナジウムで学び、この期間に後の作家であるニコライ・ゴーゴリと学生演劇で共演した[1]. 1821年から1829年までウクライナのニージンにあるen:Nizhyn Gogol State Universityにて学び、ウィーン大学を卒業し、ポーランドで教師を務めた。 その後、劇作に関心を示して1833年にイタリアの詩人についての生涯を描いた[4]処女作『タッソー(Torcuato Tasso)』を著し、劇作家として注目を集めた[1]。また同年、1804年より友人であったグリンカが作曲したオペラ『皇帝に捧げた命』の第4幕に新たな詩を付け加えた。 翌1834年に発表したロマノフ朝に関する歴史劇『神の手は祖国を救いぬ(Рука Всевышнего отечество спасла)』は、第11代ロシア皇帝であるニコライ1世と擁護者達により称賛され、クコリニクの名声を確立した[4]。また、1836年には二週間刊の芸術専門紙『美術新聞(Khudozhestvennaya Gazeta)』を創刊し、編集主幹として200篇以上の記事を執筆した[5][6][注釈 1]。 1840年は、ロシアの作曲家であるマクシム・ベレゾフスキーに関する短編小説を著す。 1868年12月20日、タガンログで亡くなる。 2008年にはクコリニクの生誕200年を記念し、タガンログにある通りがクコリニクにちなんで命名された[7]。
脚注注釈
出典
参考文献関連項目外部リンク |
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