ノート:中上健次
「その他」節から取り除いた内容について中上健次には、2018年11月7日まで、「その他」という名前の節が存在していましたが、その内容(下記)には明確な出典が無く、template:雑多な内容の箇条書きが添付されてからすでに3ヶ月以上経っていたため、記事から除去してここへ移します。これらの内容を記事に復元したい場合は、出典を付けて復元してください。 == その他 == *[[ビートたけし]]と[[永山則夫]]がアルバイトをしていた[[ジャズ喫茶]]「新宿ヴィレッジバンガード<!--[[Wikipedia:削除依頼/ヴィレッジヴァンガード (東京都新宿区)]]-->」の常連だった。その後もたけしとは交遊があり、雑誌で対談も行なっている。(「文藝別冊 中上健次」に収録)。また[[1990年]]に永山則夫が[[日本文藝家協会]]から死刑囚であることを理由に入会を断られた際、この決定に抗議して[[柄谷行人]]、[[筒井康隆]]とともに協会を脱会している。 *[[都はるみ]]とは生前から親交があり、都を題材とした小説も2作出版した。中上の訃報を知った都は、電車と飛行機で数時間かけて新宮市の中上の自宅に向かい、中上の亡骸と対面した。 *自身の境遇について、作家としての素材を豊富に持つと自負していた。実際、多くの作品において言及される異父兄の自殺のほか、『岬』『枯木灘』『地の果て至上の時』に描かれる複雑きわまる血縁関係、『千年の愉楽』『奇蹟』において狂言まわしとなる産婆オリュウノオバや『奇蹟』において非業の死を遂げる主人公のヤクザ者タイチの存在等は事実をもとにしている。 *中上はもともとは親族の物語を、ギリシャ神話[[エーレクトラー]]をもとにして『エレクトラ』という220枚の長編に仕上げていたという。しかし、これは未熟な作であるとして、編集者から発表を拒否されている。そこでは後の『岬』『枯木灘』『地の果て至上の時』三部作へつながる中上の親族についての原体験が生々しく綴られていたという。この原稿は、自宅の火災により焼失し、残っていない。 *肉体労働のかたわら執筆をおこなった中上が、原稿用紙のかわりに、持ち運びの容易な集計用紙をもちいて執筆をおこなっていたことはよく知られている。中上によると集計用紙一枚が、原稿用紙五枚から七枚の分量に相当するという。 *韓国の文化に強い関心を示し、ソウルを舞台にした小説(物語ソウル)、エッセイ(輪舞する、ソウル)を著したほか、[[金芝河]]ら韓国の文学者と交流を持ったり、韓国の伝統芸能[[サムルノリ]]の日本への紹介に努めたりした。 *受賞を切望したとされる谷崎潤一郎賞に6回(枯木灘、鳳仙花、地の果て至上の時、日輪の翼、奇蹟、讃歌)候補とされるも、遂に受賞は叶わなかった。 *エッセイ集America, America刊行時に、自作の特権化のため、著書の文庫化をしないことを決意している。それにより長編「地の果て至上の時」、短編集「千年の愉楽」以降の著書は、生前に文庫化されることはなかった(ただし編集者との“盟友”としてのつきあいから、短編集「熊野集」に限り、生前に講談社文芸文庫に収録された)。 *現在も[[熊野大学]](中上が生前に組織した郷里のグループ)主催による「中上健次シンポジウム」が毎夏に新宮市で開催され、[[柄谷行人]]、[[浅田彰]]などが講師として参加している。生徒には[[モブ・ノリオ]]などがいた。 *テレビ番組「笑っていいとも」の「テレフォン・ショッキング」のコーナーに出演した際、早稲田大学出身と虚偽の発言をした。司会のタモリから生年を聞かれ、同窓の後輩扱いすると、からかわれている。 *[[1991年]]、[[湾岸戦争]]への[[自衛隊]]派遣に抗議し、[[柄谷行人]]、[[津島佑子]]、[[田中康夫]]らとともに『[[湾岸戦争に反対する文学者声明]]』を発表した。 --Leonidjp(会話) 2018年11月7日 (水) 09:28 (UTC) 「その他」節から取り除かれたものの再掲載について出典を明記可能なものは出典をつけ、再掲載した。その際、編年の来歴に組み込めるものは組み込んだ。組み込むのに向かないと思われるものはエピソードという欄を設けそこに収録した。 再掲載できていないもの (ソースがないため) テレビ番組「笑っていいとも」の「テレフォン・ショッキング」のコーナーに出演した際、早稲田大学出身と虚偽の発言をした。司会のタモリから生年を聞かれ、同窓の後輩扱いすると、からかわれている。--以上の署名のないコメントは、2409:252:b60:5a00:f859:198e:4122:6228(会話)さんが 2019年1月3日 (木) (UTC) に投稿したものです(Jgmo30(会話)による付記)。 中上の訃報を知った都は、電車と飛行機で数時間かけて新宮市の中上の自宅に向かい、中上の亡骸と対面した。--以上の署名のないコメントは、2409:252:b60:5a00:213b:6e88:a5ef:1d54(会話)さんが 2019年1月7日 (月) 00:01 (UTC) に投稿したものです(Jgmo30(会話)による付記)。 出典不明かつ必要性の怪しい記述をよけている尾崎豊の「十七歳の地図」は本作がもとになっている。 WIKIPEDIAを参照したようなネット記事しかないうえ、中上の辞書の項目に書かれる必要性も高くないと思われる。(尾崎豊の辞書項目のほうが適当ではないか)--以上の署名のないコメントは、180.63.135.94(会話)さんが 2019年1月18日 (金) 06:33 (UTC) に投稿したものです(Jgmo30(会話)による付記)。 中上健次のページにおけるエピソードの節について中上健次が谷崎潤一郎を敬愛していたことはわかりますが、中上が『枯木灘』が毎日出版文化賞を受賞するなら、谷崎賞が欲しかったと言っていたという発言のみで谷崎賞に固執していたと捉えるのは難しいと思います。『奇蹟』においても、谷崎賞ではなく「谷崎潤一郎が生きていたら」という発言から読み取れるのは賞ではなく谷崎潤一郎という作家そのものへの執着に思えます。谷崎潤一郎賞への選考への怒りも、勝手に何度も選考された挙句落とされ続けた故の怒りで、どうしても欲しかったわけではないのでは?それとも決定的な発言があるのなら出典が欲しいです。また、他の出典に関してもページ数まで指定して頂けると正確性が増して調べやすく信憑性が出るので、出来ればページ数の明記もお願いします。 また、中上本人の発言、記述でない場合全ては推測の域を出ないと思いますし、どうしても記述したい場合はこう言った表記をしなければ評論ではなくただの故人への冒涜になってしまいます。 サイドン(会話) 2022年2月15日 (火) 07:53 (UTC)
「三島由紀夫とほぼ同じ年齢(享年四十六)で死んだ中上健次は、日本で三人目のノーベル賞作家になることを日頃から自ら広言(高言)していた。もちろん、酒の席での放言、暴言にはこと欠かなかった無頼派的な作家のことだから、その言葉にどれだけの真剣味があったのか、疑問とするところがないわけではないが、私の個人的な感じ方では、彼はかなりの程度本気でそのことを考えていたと思う。 彼は文学賞を欲しがっていた。中上健次が生前、受賞した文学賞は、芥川賞(『岬』)と毎日出版文化賞、芸術選奨文部大臣新人賞(『枯木灘』)ぐらいで、彼は自分が不当に文学賞から遠ざけられていると考えていた。つまり、彼は国内では自分の評価に対して不遇を託っていたのだ(三島由紀夫、そして村上春樹もそうだった)。 とりわけ、彼が敬愛していた谷崎潤一郎の名前を冠した谷崎賞は、新人作家からもう一段、中堅作家に与えられる賞としても、中上は当然自分に与えられるものとして疑っていなかった。そのため、選考委員の一人、丸谷才一(一九二五~二〇一二)が中上の文章を選評のなかで取り上げ、それを非難して落選させたことを述べた時の、彼の落胆ぶりと怒りは激しかった。しかも、それまでに、谷崎賞には彼の代表作と目される『枯木灘』『鳳仙花』『地の果て至上の時』『奇蹟』『讃歌』と五回も候補に挙げられ、そのたびに落選の憂き目に遭った。現在の文学史的評価から見て、これがいかに不当なものであるかは歴然としていよう。 中上健次の激しい抗議をきっかけに、谷崎賞は候補作の発表を止めてしまったほどだ(受賞作だけが発表されることになった)。」
--Travis sttoko(会話) 2022年2月15日 (火) 08:13 (UTC) 返信有難うございます。失礼ながら、テンプレートを貼り付けた際の返信をコピーペースト致します。→テンプレートを使い慣れていなくて申し訳ない。これらの記述はWikipediaにおける「検証可能性」「中立的な観点」の方針から外れていると自分は考えます。また、中上自身が発言したことに関しては断定的に書いても問題はありませんが、他者による伝聞や推測の域を出ない、さらにWikiの編者が内容を一部補完している記述は独自研究と見做すべきだと考えます。 ただ、中上が谷崎潤一郎賞に長年固執していたと自ら断言している記述、及び湾岸戦争反対の主張はノーベル賞への布石であると言っていた出典がある場合は推測としてではなく、断定で書いていいと思います。また、大江健三郎が中上の死後ノーベル賞を受賞したという記述は中立性に欠けますし、中上健次が自ら大江をライバル視していたという様な発言は残っていますか? こういった「死人に口無し」な情報はかなり厳密に取り扱う必要があると自分は考えます。書評家や評論家による発言ではなく中上本人による発言が載った出典を明記してくだされば助かります。 サイドン(会話) 2022年2月15日 (火) 08:41 (UTC)
--Travis sttoko(会話) 2022年2月15日 (火) 08:52 (UTC) https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%B3%E7%82%B9 ←貼れてますかね?Wikipediaの編集における「中立的な観点」の原則として「意見を事実として記さない」というものがあります。それを踏まえてトラヴィスさんが上に記載した文章を読む限り、「中上健次が谷崎潤一郎賞に固執していた」と断言はできないと考えます。敬愛する作家の名を冠した賞に何度も作品を勝手に候補に挙げられた挙句落とされ続けたことに対しての怒りは読み取れますが(それすらも本人の記述、発言によるものではない、というのも気になりますが)、文学賞にこだわっていたと書かれているだけで谷崎潤一郎賞にこだわっていたとは書かれていません。なので、自分は中上健次が谷崎潤一郎を敬愛していて、どのような作品をベストに挙げていたのかという記述は認められると思いますが、谷崎潤一郎賞に拘っていたというような記述は「意見を事実として記さない」「独自研究を載せない」などに抵触すると考えます。 サイドン(会話) 2022年2月15日 (火) 09:22 (UTC) また、「検証可能性」に関しては出典においてページ数の明記がないこと、誰によって谷崎潤一郎賞に固執していたと述べられているのかの記述が無く、それにより独自研究になっているといった観点から「検証可能性」に抵触すると判断しました。 サイドン(会話) 2022年2月15日 (火) 09:32 (UTC)
受賞に執念をみせた←中上健次本ページにおける谷崎潤一郎賞の節におけるこの記述ですね。中上健次は谷崎潤一郎を敬愛しており、毎日出版文化賞を受賞した際は『枯木灘』で谷崎潤一郎賞が欲しかったと言っていたそうですが、それ以降の作品において谷崎潤一郎賞に執念していた記述は見つからず、『奇蹟』における評価においても谷崎潤一郎賞ではなく「谷崎潤一郎が生きていたら」と発言しているため、谷崎潤一郎という名を冠した賞に勝手に候補に挙げられ落とされるといったことに関して怒りを覚えた、としか挙げれた出典からは読み取れない上に、それらは全て友人の推測です。それをWikipediaの本人が実際にそう思っていたかのような事実として記載されるのはやはり問題があると思います。 ただ、中上健次が自ら谷崎潤一郎賞を受賞するために作品を書いていたとかそのようなことを発言、もしくは記述しているのであれば推測ではなく事実としての体で記載しても問題ないと思います。 サイドン(会話) 2022年2月15日 (火) 09:55 (UTC)
--Travis sttoko(会話) 2022年2月15日 (火) 10:10 (UTC) また、ノーベル賞における大江健三郎の話は明らかに余計な情報ですし、ライバル視していたという本人による発言はあるのでしょうか?仮にあったとしても大江健三郎の受賞と中上健次のエピソードを接続させるのは中立性を欠いた記述だと思います。 また、柄谷は中上健次が実際に湾岸戦争への抗議は布石だと発言したと書いたのか、柄谷がそう思っていただけなのかで記述の仕方も変わってくると思います。 サイドン(会話) 2022年2月15日 (火) 10:13 (UTC)
--Travis sttoko(会話) 2022年2月15日 (火) 10:15 (UTC) 要はWikipediaの編集における「中立的な観点」の原則として「意見を事実として記さない」に抵触している記述が多いので記述の方法を変えて、尚且つ原本をお持ちならページ数と出版社まで出典に記述してくださいということです。 中上健次が実際に自ら語ったことなのか、周りの人間がそう判断した上でそう言ったことなのかの判別がはっきりする形で記述をしてくださいということです。 サイドン(会話) 2022年2月15日 (火) 10:19 (UTC) 例えば また、谷崎潤一郎賞には6回(『枯木灘』『鳳仙花』『地の果て 至上の時』『日輪の翼』『奇蹟』『讃歌』)候補となったが、候補作にあげられながら受賞を逸した。最終的には、中上健次の抗議をきっかけに、谷崎賞は候補作の発表をやめて、受賞作だけが発表されることになった。 ↑これなら事実を記載しているだけなので問題は無いと思います。 サイドン(会話) 2022年2月15日 (火) 10:29 (UTC)
文学的盟友であった柄谷行人は、中上がノーベル賞を意識することからその言動が変わり、晩年の湾岸戦争反対などの運動もノーベル賞を意識したものであったのではないかと推測している。←これなら「中立的な観点」の原則として「意見を事実として記さない」に抵触しないとおもいます。 大江健三郎の記述に関しては、本人たちが認めていたのかも定かではない曖昧な対立構造を根拠に大江健三郎の記述を付け加える必要性は断じてないと思います。中立性を欠いた俗っぽい記述だと自分は思っています。 サイドン(会話) 2022年2月15日 (火) 10:36 (UTC)
--Travis sttoko(会話) 2022年2月15日 (火) 12:01 (UTC) https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%B3%E7%82%B9 ←先程も貼りましたが、このWikipediaの編集における「中立的な観点」のページの「中立的な観点とは」という節をまず確認してください。また、出典を確認するという次元の話ですらなく、wikiの編集ルールに則り誰もが出典の確認をスムーズにできるように出版社名と引用文があるページ数を出典に記載してくださいと言っているだけです。自分はゼミの教授が中上健次のWikiが中上本人の発言と書評家、評論家の発言が事実と推測が混濁していて出典元の記載も乱雑な「悪い例」として出していた際に気になり、それがきっかけで編集しているだけの人間で、出典元の本はもちろん借ります。私が言っているのはそれ以前の問題の話です。上記のWikiを見ていただければ、編集ルールに沿ってかなり単純な指摘をしていることがわかると思います。それを踏まえた上で私がテンプレートの範囲に指定しているあなたが記載した文章と私がさっきこの議論ノートで記載した上記の例文を読み比べればわかります。一応、下に自分が指摘していることに関しての要約を再度コピーペーストしておきます。↓↓↓↓↓↓↓↓ 要はWikipediaの編集における「中立的な観点」の原則として「意見を事実として記さない」に抵触している記述が多いので記述の方法を変えて、尚且つ原本をお持ちならページ数と出版社まで出典に記述してくださいということです。 中上健次が実際に自ら語ったことなのか、周りの人間がそう推測した上でそう言ったことなのか判別がはっきりする形で記述をしてくださいということです。 ↑↑↑↑↑↑↑↑↑ 私はただWikipediaの編集ルールに則って、正確な情報や事実が正確な出典の元中立に出揃っていて欲しいと思っているだけです。確かに伝え方が下手でしたが、Wikipediaの編集ルールに則りページを中立な状態で編集していくためにどうかご協力をお願いします。 サイドン(会話) 2022年2月15日 (火) 12:51 (UTC)
まず、なせトラヴィスさんが中上健次の研究の第一人者というトラヴィスさんの「価値判断」を根拠として、中上本人が記述していない情報を「意見」ではなく「事実」として解釈しているのかよくわからないのですが、 トラヴィスさんは↓↓↓ 受賞に執念をみせた谷崎潤一郎賞には6回(『枯木灘』『鳳仙花』『地の果て 至上の時』『日輪の翼』『奇蹟』『讃歌』)候補となったが、落選し続けた。↑↑↑と記載しています。これは ガイドラインの例の中で「大量虐殺は悪行である」と記述してはいけませんが、「某氏は、大量虐殺は人間の悪の縮図であると記している」と記述することはできます。と、書いてある通り、「受賞に執念を見せた」という箇所に関しては中上本人が谷崎賞を是が非でも獲るとどこかで発言、記述していた場合はその出典を明記してもらえれば「事実」として「受賞に執念を見せた」と記載して構わないと思いますが、それがないのならば「事実」ではなく一評論家の「意見」「推測」になるため削除するか、誰の意見、推測なのかをはっきり記述した上で記載してください。 また、↓↓↓ 文学的盟友であった柄谷行人は、中上がノーベル賞を意識することからその言動が変わり、晩年の湾岸戦争反対などの運動もノーベル賞を意識したものであったとしている。を、「であったと推測している」という個人の意見として強調する文章の改変、また、↓↓↓ 日本人二人目のノーベル文学賞は中上の死の二年後、中上が影響を受け、またライヴァル視もした大江健三郎に授与された↑↑↑という部分に関しては大江健三郎の受賞を中上健次の節にわざわざ補足として記載する必要性がない、「中立性」のない権威主義的な記述であることから大江健三郎の受賞部分に関しては全て削除が妥当だと思います。 サイドン(会話) 2022年2月17日 (木) 08:49 (UTC)
自分が言っているのは高澤秀次が(例えそれが担当編集、親、配偶者、娘だったとしても) 中上健次本人ではない限りWikipediaに載せるのなら、「受賞に執念を見せた」という部分は中上健次本人が実際に記述、発言した部分とは違うということを前提とした文章で記載されないと「中立的な観点」( https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%B3%E7%82%B9 )に記載されている原則と反すると言っているんですが、本人による発言と他の人間による発言は分けて、というか誰がどういった根拠でそう推測、評論しているのかというのは全て記載されるべきというのは基本原則云々を持ち出す前に当たり前のことですよ。今のWikipediaに記載されてる内容では一研究者、評論家の意見、推測が普遍的事実として載ってしまっているんだから、「もっと正確な形で再編集されるべき」という指摘に関してなぜそんなに抵抗をするのか理解ができません。 サイドン(会話) 2022年2月17日 (木) 17:46 (UTC)
①中上健次本人が明言したこと以外が「事実」として解釈できる理由が「高澤秀次(私にとってはここの名前に柄谷や今井亮一や松田樹や四方田犬彦が入っていても同じです)は中上研究の第一人者だから」というのは「事実」として記述してもいい理由にはなっていないと私は考えます。なぜなら、高澤秀次は中上健次本人ではないので、高澤の記述を根拠に「受賞に執念をみせた谷崎潤一郎賞には…」という「事実」として解釈されてしまうような記述が適用されるのはおかしいからです。私は誰がどういった根拠で「中上が受賞に執念を見せた」と、推測しているのかも記述する形で再編集してくださいと言っているだけです。その根拠の記述を記載する形で再編集していただけないのであれば、「受賞に執念をみせた」という一批評家の解釈を「事実」として載せるのは問題があるため「受賞に執念をみせた」という箇所だけでも削除すべきという考えです。 ② 証拠を辿っていけば何が「真」か確定できるものが「事実」なはずです。←私もその通りだと思うので「確定」できる証拠を文中にしっかり記載すればいいと思います。ただ、中上健次本人に関する話なので勿論「中上健次が谷崎賞を欲しがったかどうか」に関して完全に「確定」させるためには中上本人の記述、発言がない限りこれは「事実」ではないので記載する時は一評論家の「意見」として解釈してもらうための配慮が必要です。というか誰による意見なのか正確に記載するのは意見の中立性を保つ上で当然だと思います。 ③このノート上における私の記述を遡ればわかりますが既にWikipediaのページを貼り付け、Wikipediaの編集における「中立的な観点」のページの「中立的な観点とは」という節をまず確認してください。と、説明しています。さらに、その節の中の例文を引用して再度説明をしています。私が問題視している部分は「中立的な観点」の原則に反しているということが主にあり、それに関連して誰の評によって、またどういった根拠で中上健次が谷崎賞に執念を見せていたのかも記載せず、「受賞に執念をみせた」と記載してしまうのは「検証可能性」の原則に反しているので再編集してくださいというのが、自分が問題視している箇所であり、たった今議論している内容だと私は解釈しています。 サイドン(会話) 2022年2月17日 (木) 22:45 (UTC)
まず、トラヴィスさんが記述した文がこちらです↓↓↓ 受賞に執念をみせた谷崎潤一郎賞には6回(『枯木灘』『鳳仙花』『地の果て 至上の時』『日輪の翼』『奇蹟』『讃歌』)候補となったが、落選し続けた。中上健次の抗議をきっかけに、谷崎賞は候補作の発表をやめて、受賞作だけが発表されることになった。 ↑↑↑ この文章の問題点は個別参照、Inline Citationによる出典の明記はされていますが、文中自体に誰による文章なのかが明記されていないことによって「検証可能性」に反しており、なによりそれと同時に「中立的な観点」の方針に反しています。まず、「受賞に執念をみせた」という箇所に関してですが「中立的な観点」のページ( https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%B3%E7%82%B9 )における「中立的な観点とは」という節から「意見を事実として記さない」という原則を一つ引用し、また、同じく「中立的な観点」のページにおける「中立性論争に対処する」の節からほぼ全文引用しますのでまず読んでいただきたいです。↓↓↓↓↓↓↓↓↓ ↓「中立的な観点」のページの「中立的な観点とは」という節における「意見を事実として記さない」という原則から引用↓ 通常、記事はその記述対象について表された重要な意見を情報として含みます。しかし、その意見をウィキペディアの見解として述べてはいけません。それよりはむしろ、その意見が特定の情報源に帰することを文中に記すか、あるいは十分な根拠を示せる場合には、広く認められている意見として記述されるべきです。たとえば、記事中で「大量虐殺は悪行である」と記述してはいけませんが、「某氏は、大量虐殺は人間の悪の縮図であると記している」と記述することはできます。 ↓同ページの「中立性論争に対処する」という節から引用↓ 「ジョン・ドウの野球技能は、アル・ケーラインやジョー・トーリといった野球関係者から賞賛されている」というように、事実に即した意見を扱った記述としてならば、記事に含めることができます。それでもなお、意見は検証可能な情報として適切に出典を提示した上で記載されなければなりません。 別の方法としては、実際に事実として存在する事柄について明細に述べるか具体的に述べる方法が有効です。たとえば、「ジョン・ドウは、2003年から2006年まで、メジャーリーグで打率1位であった」といった記載の仕方があります。このような記述であれば、彼が最高の野球選手であったかどうかについては人々の間でなおも議論が続くでしょうが、ここで事実として提示された優れた打撃成績については誰もが認めるところとなるでしょう。 偏った記述や意見の陳述をイタチ語法で言い換えたくなる衝動は抑えてください。たとえば、「多くの人々はジョン・ドウが最も優れた野球選手だと思っている」という記述では、「どういった人たちが?」「どれだけ多くの人が?」という側面について意味をぼかした表現になっています。「多くの人々は…と思っている」といった記載の仕方が許されるのは、少なくとも1件の公表された意識調査によってそれが裏付けられている場合のみです。 ↑↑↑↑↑↑↑↑↑ これらの原則を踏まえた上で、トラヴィスさんが記述した文章を見ると文中には川村湊、高澤秀次という人による意見、記述であるとは記載されていません。また、トラヴィスさん自身が個別参照、Inline Citationによって「受賞に執念をみせた」という箇所に出典を明記してくださっていますが、その出典の1つである川村湊『村上春樹はノ-ベル賞をとれるのか? 』光文社 Kindle版708ページにはこう記載されています。↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 「もちろん、酒の席での放言、暴言にはこと欠かなかった無頼派的な作家のことだから、その言葉にどれだけの真剣味があったのか、疑問とするところがないわけではないが、私の個人的な感じ方では、彼はかなりの程度本気でそのことを考えていたと思う。」 ↑↑↑↑↑↑↑↑↑ 正直、例え川村湊がこういうexcuseを入れていなかったとしても中上本人によるものではない記述の時点で「受賞に執念を見せた」というような、文中に「誰々による、意見、推測」といった正確な情報を記載せず、主語を入れない形で「事実」として記述してしまうのは正確性に欠けるのではないかと思います。また、高澤秀次の中上健次キーワード事典に収録されている中上健次電子全集21収録からの引用をトラヴィスさんは2回されていますが、その引用文はこれですよね?↓↓↓↓↓↓ 「谷崎潤一郎賞受賞に執念を見せたものの、『枯木灘』、『鳳仙花』、『地の果て 至上の時』、『日輪の翼』、『奇蹟』は、いずれも候補作にあげられながら受賞を逸した。 ↑↑↑↑↑↑ 再度引用しますが、トラヴィスさんが中上のページに記述した文章がこれです。 ↓↓↓↓↓↓ 受賞に執念をみせた谷崎潤一郎賞には6回(『枯木灘』『鳳仙花』『地の果て 至上の時』『日輪の翼』『奇蹟』『讃歌』)候補となったが、落選し続けた。 ↑↑↑↑↑↑ もし引用するのならば、「受賞を逸した。」を「落選し続けた。」とニュアンスを変えて記載するのではなく、なるべくそのまま正確に引用するべきではないでしょうか? これらを踏まえた上で再編集して引用した場合まず前提として川村湊の引用部分は高澤秀次の引用部分を包括した上でより詳細に中上と谷崎潤一郎賞に関して記述しているので、川村湊の記述を正確に引用する形にまとめるのが1番いいのではないかと私は思いますが、もちろんそれはトラヴィスさんと議論した上で最終的な文章の形を決めていきたいと思っています。一応現段階で自分は具体的にこういう形に再編集するのが正確性の観点からいいのではないかと思っていますが、トラヴィスさんの意見を聞きたいです。↓↓↓↓↓↓ また、生前の中上と親交があった川村湊によると、中上は自分が不当に文学賞から遠ざけられていると考えていたが、その中でも彼が敬愛していた谷崎潤一郎の名前を冠した谷崎潤一郎賞の選考委員である丸谷才一が中上の文章を選評のなかで取り上げ、それを非難して落選させたことを述べた時の彼の落胆ぶりと怒りは激しく、それまでにも谷崎賞には中上の代表作と目される『枯木灘』『鳳仙花』『地の果て至上の時』『奇蹟』『讃歌』を五回も候補に挙げられ、そのたびに中上は落選の憂き目に遭っており、現在の中上の文学史的評価から見て、これがいかに不当なものであるかは歴然としていると川村は主張している。そして、最終的に中上健次の抗議をきっかけに、谷崎賞は候補作の発表を止め、受賞作だけが発表される事態にまで発展した。 サイドン(会話) 2022年2月18日 (金) 17:13 (UTC)
専門家が「事実」として述べていたとしても、それが誰によって語られ、どのような文脈で語られたのかは詳細に引用しましょうと言っているだけなのですがなぜそこまで執筆者の名前を本文に付け加えることに対して頑なに拒否をするのでしょうか。川村湊の本文からどの文を抜き出すのかという判断事態に恣意的な判断が混ざっているので、なるべく詳細に、簡潔に引用しましょうという話でもあります。 ただ、これでは埒があかないのでトラヴィスさんの記述した通り高澤秀次の文を主に引用するのならば「受賞を逸した。」を「落選し続けた。」とニュアンスを変えて記載するのではなく、なるべくそのまま正確に引用していただきたいのですがこれは認めていただけますでしょうか?高澤秀次の文章から正確に引用していただければテンプレートを外します。 後は私が独自に川村湊の文章から引用をする形で中上健次がどのように文学賞に執着していたのかを同じ節に違う項目を作り記述してみます。 サイドン(会話) 2022年2月19日 (土) 06:28 (UTC) また、ノーベル賞の項目に関して、中上健次のページなので大江健三郎のノーベル賞受賞をここに記載することに関しては脈絡もなく恣意的な引用であると感じます。 湾岸戦争の記述はそのままでいいとしても大江健三郎の記述に関しては何度でも削除させていただきます。 サイドン(会話) 2022年2月19日 (土) 06:50 (UTC)
著作リストに関する議論についてWikipedia:井戸端/subj/ある作家の著作一覧の書名に直に国会図書館デジタルコレクションの検索結果を貼る行為において、当該記事に関する議論が行われています。ノートページ上に誘導がありませんでしたので、リンクを付与します。--Nux-vomica 1007(会話) 2024年6月29日 (土) 02:30 (UTC) |
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