ノート:名和無理助改名提案この人物の諱は「重行」の他に「宗安」説もあり、史料の不足もあって定説がありません(伊藤潤の小説『牢人大将』や『信長の野望オンライン』では「宗安」説が採用されています)。また、書籍やインターネットなどを見ても通称が使用されているケースが多いため、「記事名の付け方の目安」の「認知度が高い」に合致する通称を記事名にしたほうが良いかと思います。戦国時代の人物で、諱が判明していても通称を記事名とした例としては前野九郎兵衛、木下雅楽助などの例があります。 ただし、名字は「名和」「那波」「那和」「縄」、通称は「無理之介」「無理介」「無理之助」「無理助」など、史料によってさまざまな表記が混在して(無理之介の主要な史料である『甲陽軍鑑』ですらそうです)、正確な表記を特定することは困難です。 そこで発想を変え、現在一般的に流布していると思われる表記を集めると、以下のようになります。 ・ 伊藤潤の小説『牢人大将』:「那波無理之介」 ・ 旧2ちゃんねる戦国時代板「戦国ちょっといい話・悪い話」:「名和無理之助」 よって本記事を「那波無理之介」または「名和無理之助」に改名を提案します。 --苗島 勘解由(会話) 2024年6月30日 (日) 12:19 (UTC)
改名提案(修正)以前本記事名の改名を提案しましたが、@こやまひろ様からご意見を頂戴し、また筆者も資料を収集する中で改名案を修正したほうが良いと考えました。修正案についての意見はトピックを改めて記したいと思います。以前と重複しますが、改名が必要とされる理由から記述します。
現在の記事名は「名和重行」ですが、この人物(便宜上「無理助」と表記します)の諱は「宗安(宗泰)」とする史料もあります。 ・ 重行説:『武徳編年集成』「菅沼家譜」「長篠合戦討死交文」ほか ・ 宗安説:『甲斐国志』『系図纂要』『伊勢崎風土記』ほか このほか由良氏(横瀬氏)の盛衰について記した『新田正伝記』『新田正伝或問』には「広光」「広元」という諱もあります。 無理助本人が署名したり無理助に宛てて書かれた書状などの一次史料は発見されておらず、彼の諱については定説がないのが現状です。よって「重行」を記事名とするのは不適切だと思われます。 そこでWikipedia:記事名の付け方ページに記された「記事名の付け方の目安」の「1.認知度が高い」「2.見つけやすい」「3.曖昧でない」に合致する通称「無理助」を記事名にしたほうが良いと考えます。戦国時代の人物で、諱が判明していても通称を記事名とした例としては前野九郎兵衛、木下雅楽助などの例があります。
しかし通称名にも問題があり、姓は「那波/那和/縄/名和」、名(通称名)は「無理之介/無理介/無理助/無理之助」など多くの表記ゆれがあります。 前述のように無理助の名を記した一次史料は発見されていないため(中御門宣教の日記『宣教卿記』に「なわふり助」として記されていますが、ひらがな書きのためここでは取り上げません)、歴史史料または古典として評価の定着した二次資料に限定しても、以下のように多様な表記が混在しています。 ・ 『甲陽軍鑑』:縄無理之助/縄無理介/那和無理助/那和無理介/なわ無理之助/なわむりの介/なわ無理之助 ・ 『信長公記』:なわ無理介 ・ 『甲斐国志』:那波無理助宗安/名和無理助 ・ 『系図纂要』:(那波)宗泰〈無理介〉 ・ 『長篠合戦図屏風』(貼札):名和無理助 次にWikipediaの記事内で無理助の表記を集めた結果は以下のとおりです。 ・ 長篠の戦い:名和宗安/名和無理之助 ・ 飯羽間城の戦い:名和無理介 ・ 武田の五名臣:名和無理助 ・ 那波氏:宗泰(名和無理介) そして過去10年以内の著書・研究論文から無理助に関する表記を集めてみると以下のとおりになります。 ・ 『武田家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年:縄無理助(同項目は丸島和洋執筆) ・ 丸山和洋『戦国大名武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち―』教育評論社、2016年:名和無理助 ・ 廣瀬亮輔「武田「牢人衆」名和無理助の基礎的考察」(『群馬歴史民俗』38)2017年:名和無理助 ・ 木下聡「長篠合戦における戦死者の推移について」(『長篠合戦の史料学 いくさの記憶』勉誠出版)2018年:名和無理介 ・ 白水正「犬山城白帝文庫蔵「長篠合戦図屏風」」(同前)2018年:名和無理助 ・ 湯浅大司「豊田市郷土資料館蔵「長篠合戦図屏風」」(同前)2018年:名和無理之助 ・ 高橋修「豊田市郷土資料館蔵「長篠・長久手合戦図屛風」の図像的特徴と成立背景」(『戦国合戦図屏風の歴史学』勉誠出版)2021年:名和無理之助/名和無理助 この他に調べればもっと出てくるとは思いますが、同じ研究者が著作によって表記を変えたり、同じ著作物の中でさえ異なる表記が登場する(こちらは校正ミスかもしれませんが…)状態です。 戦国時代の識字率等から、かなり早い段階(おそらく無理助の生前)から名前の表記ゆれは存在していたと思われ、特定の表記が絶対に正しい、または間違っているとは言い切れない状況です。
では「名和無理助」が記事名として(暫定的に)適切だと思われる理由として以下の点が挙げられます。 ①「信頼できる情報源」:二次資料ではあるが歴史史料・古典として評価の定着した『甲斐国志』『長篠合戦図屏風』や、武田氏の菩提寺・恵林寺に伝えられた長篠合戦戦死者名簿「長篠合戦討死交文」で使用された表記である。また現代の研究でも複数の用例が確認できる。 ②「首尾一貫している」:Wikipediaの他の記事でも同じ(あるいは近い)表記が使用されている例が多いので整合性が取れる。 後年、無理助直筆の書状などの新史料が発見されたり、彼を主人公とした創作物がヒットして別の表記(例えば「那波無理之介」など)が定着した場合には改めて記事を改名すべきだと思いますが、現時点では「名和無理助」表記が記事名として適切だと思われます。
--苗島 勘解由(会話) 2024年7月14日 (日) 18:03 (UTC)
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