ハクタイセイ
ハクタイセイ(欧字名:Haku Taisei、1987年4月17日 - 2013年10月28日)は、日本の競走馬、種牡馬[1]。 1990年の皐月賞(GI)、きさらぎ賞(GII)優勝馬である。 戦績デビューから重賞初制覇までハクタイセイは1989年7月、小倉競馬場でデビューしたがなかなか勝ち切れず、10月に未勝利を脱するまでに5戦を要した。だが、未勝利戦を勝ち上がると、400万下、シクラメンステークス(OP)と3連勝。 年が明けて4歳になって、1月の若駒ステークス(OP)にも勝利して、4連勝でクラシック路線の有力候補の1頭に名を連ねたハクタイセイは5連勝をかけて、阪神3歳ステークス馬コガネタイフウ、ダイタクヘリオスら有力馬が集まったきさらぎ賞に出走した。レースでは不良馬場を物ともせず、1番人気に応えて快勝。鞍上の須貝尚介ともども重賞初制覇を飾った。このきさらぎ賞の勝利により、ハクタイセイは自身と同じ芦毛・ハイセイコー産駒の牝馬・ケリーバッグ(桜花賞2着)とともに「白いハイセイコー」として、春のクラシック戦線で注目を集める存在となった。 きさらぎ賞後、陣営はハクタイセイが輸送に弱いことを考慮して、トライアルを回避、皐月賞に直行する道を選んだ。 皐月賞とその後鞍上が須貝から南井克巳に乗り替わった皐月賞で、ハクタイセイはアイネスフウジン、メジロライアンに次ぐ3番人気に推された。レースでは好位をキープし、逃げるアイネスフウジンをクビ差差し切って、6連勝で父のハイセイコーに続く皐月賞父子制覇を成し遂げた。調教師の布施正は、既にバンブーアトラスで東京優駿(日本ダービー)、バンブービギンで菊花賞を獲得しており、この勝利で史上7人目の3冠トレーナーとなった。また、小倉デビュー馬のクラシック制覇は史上初の快挙だった。 続く東京優駿(日本ダービー)では南井が所属厩舎のロングアーチに騎乗することとなったため、新たに鞍上に武豊を迎えて、父が果たせなかった2冠制覇に挑んだ。しかし、レースでは逃げるアイネスフウジンをマークする2番手で追走したが、直線でぱったりと止まり5着に終わった。 ダービー後、ハクタイセイは屈腱炎を発症し、長期休養に入った。復帰の目途が立ったのは1年後、安田記念がその復帰戦となるはずであった。しかし、レースを目前にして繋靭帯炎を発症。出走取り消しとなり、引退を余儀なくされた。 競走成績
引退後1992年から日本軽種馬協会静内種馬場で種牡馬入りし、初年度の種付けは26頭。1993年から1996年まで九州種馬場(鹿児島)で供用され、佐賀競馬で8勝をあげたタイセイウルフ[2]などを出した。 その後、1997年、1998年に静内種馬場、1999年には胆振種馬場、2000年以降は十勝軽種馬農協種馬場で繋養されたが、活躍馬を出せず、2006年を最後に種付けは行われなかった。2010年の種付けシーズン終了後に種牡馬を引退し、静内種馬場で功労馬として余生を送っていた。 2013年10月28日、メラノーマが原因による腸閉塞で死亡した[3]。 血統表
脚注
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia