チャイナロック
チャイナロック(China Rock[1]、1953年 - 1982年12月28日)は、イギリス生産の競走馬、種牡馬である。現役時代にはジョン・ポーター・ステークスなど7勝の成績を残し、引退後はイギリスで種牡馬となった。 同地では1シーズンのみの供用となったが、その後日本に輸出されると、ハイセイコー、タケシバオー、アカネテンリュウ、メジロタイヨウら数多くの活躍馬を送り出した。1973年には中央競馬のリーディングサイヤーを獲得している。 生涯1953年誕生[1]。父ロックフェラ(Rockefella)は英1000ギニー、オークスを制したロックフェルが遺した唯一の産駒で、競走馬としては3勝しただけで終わったが[4]、種牡馬となってからは良血をよく伝え、多くの名馬を送り出した[5]。代表産駒にはロッカボン[注 2]やリナカ[注 3]などが挙げられ[5]、日本にはチャイナロックのほか、ゲイタイム、バウンティアス、キャッシアンドカリッヂが輸入されている[注 4][5]。母メイウォング(May Wong)は現役時にクリテリウム・ド・メゾン・ラフィット、チェスターフォード・ステークスを含む6勝を挙げ[3]、繁殖牝馬となってからもサラヴァン[注 5]や、チャイニーズクラッカー[注 6]といった名馬の母となっている[11]。 当のチャイナロックは4歳から7歳までイギリスとフランスで現役生活を送り、11ハロンから14ハロンの距離で活躍した[12]。4歳時にはクランバー・メイドン・ステークス[注 7]、ウイリアム・クラーク・ハンデ、5歳時にはジョン・ポーター・ステークス、パラダイス・ステークス、クーム・ステークス[注 7]、6歳時にはヴィクター・ワイルド・ステークス[注 7]を制した[3][10]。そして、7歳時には遠征先のフランスでロドスト賞[注 7]に勝利[3][10]。25戦7勝の成績を残し競走馬を引退した[10]。 引退後の1960年からイギリスで種牡馬として繋養されたが[3]、同地では1シーズンのみの供用となり、同年秋には本桐牧場[注 8]によって日本へ輸入された[14][15]。イギリスでは10頭の産駒を出し、勝ち上がりは2頭のみであった[16]。通算成績は4勝で、うち3勝をタイマロック(Timurock)が挙げている[4]。 日本における活躍![]() 日本での供用初年度は46頭に種付を行った[17]。当初から種牡馬として期待を集めていたわけではなく[14][18]、大川慶次郎によると同時に輸入されたデッキテニス[注 9]の方が注目されていたという[19]。しかし、初年度産駒の32頭からアオバ(愛知盃)やハツライオー(京都記念)が活躍を見せると[14][17]、1969年にはタケシバオーとメジロタイヨウがそれぞれ春秋の天皇賞を、アカネテンリュウが菊花賞を制するなど、産駒が重賞9鞍を獲得した[4][17]。白井透は「1969年は、チヤイナロツクの年であったといってもいいすぎではないだろう」と述べている[4]。 その後、産駒の活躍や受精能力の高さから、チャイナロックの種付数は急増、1970年には134頭への種付を記録する[14]。そして、同年に誕生したハイセイコーは、1972年大井競馬場でデビュー[21]。6連勝で青雲賞を制すると[22]、中央競馬へ移籍した後も連勝を重ね、その人気は競馬に興味のない人々にまで浸透していった[23]。連勝は東京優駿(日本ダービー)でタケホープに敗れたことで止まるも[24]、有馬記念のファン投票で1位になるなどその人気は衰えることなく、1973年の優駿賞選考では「大衆賞」を受賞した[25]。ハイセイコーが競馬ブームを巻き起こしたこの年、チャイナロックも中央競馬のリーディングサイヤーに輝いている[21]。 1982年8月頃から体調を崩し始め、同年の12月28日、本桐牧場で老衰のため死亡した[18]。30歳の大往生であった[18]。死亡の年にも1頭に種付をしたが不受胎に終わっている[26]。生涯で種付頭数1334頭、産駒1010頭を記録[注 10][27][28][29]。産駒は中央競馬で通算1012勝の成績を残した[30]。 評価・特徴『サラブレッド種牡馬銘鑑』では体高169cm、胸囲191cm、菅囲21.0cm[3]。本桐牧場の次長であった中村一三[注 11]は、チャイナロックが日高に送られた際に駅から牧場まで連れてくる役目を負ったが、脚が長く首も長い同馬に「キリンみたいな馬」との印象を受けたという[31]。気性は荒く、チャイナロックを預って世話していた人物は次のように語っている[32]。
大渕文明[注 12]も、同馬は四白流星の栃栗毛であったが、目つき鋭く殺気溢れる体つきで、毛色のイメージを吹き飛ばすほどの迫力を持った怖い馬であったと述べている[33]。 現役時代は7勝した「一流半から二流のステイヤー」(吉沢譲治)で[14]、競走成績は日本に輸入されたロックフェラ産駒の中でも最低であったが[34]、日本での供用後はハイセイコー、タケシバオー、アカネテンリュウ、メジロタイヨウら数多くの活躍馬を送り出した[12]。北海道の日高振興局は同馬を、戦後日本のサラブレッド馬産を代表する大種牡馬の1頭と紹介している[35]。1976年には同馬を讃えるため、本桐牧場の入口に「チャイナロック号記念像[注 13]」が建てられた[36]。また、2000年には、雑誌『優駿』(2000年11月号)の企画で「20世紀の輸入種牡馬ベスト20」に選出されている[37]。 血統・産駒の特徴![]() 父のロックフェラは、英国二冠馬のハイペリオンと、同じく牝馬二冠のロックフェルの産駒で[38]、良血を仔に伝え種牡馬として多くの名馬を送り出した[5]。チャイナロックの父系は「ハイペリオン系[39]」や「ロックフェラ系[38]」と呼ばれる。ロックフェラ系は老齢になっても良駒を出す特徴を持っており、チャイナロックもその特徴をよく受け継いでいた[39]。母メイウォングはラスタムパシャ(Rustom Pasha)を父に持ち[36][40]、前述のとおり競走馬、繁殖牝馬として活躍した[11]。大川は、チャイナロック産駒を「丈夫で、力はあるし、長距離もOK、それにスピードもある」と評しており、それは多分にメイウォングの良さを受け継いでいるからではないかと推測している[19]。 チャイナロックの血統の特徴としては、単距離から長距離まで構わず走ることや、ダートコースや重馬場得意であることが挙げられる[39]。吉沢は同馬の血統について、「短距離から長距離までこなし、タフでダートや重馬場で特に強い血統として定評があった」と述べている[39]。また、『サラブレッド血統事典』でも、同じく「短距離でのスピードも長距離でのスタミナも優れた万能型」と評されている[12]。白井も、タケシバオーやハイセイコーなど、雄大な馬格を持ち、ダートや重馬場を苦にしない馬が多いことを産駒の特徴として挙げており、その特徴が、芝コース保護のためにダート戦が不可欠、かつ雨が多い日本競馬の環境で有利に働いたと述べている[17]。 性豪抜群の受精能力を持ち、生涯1334回もの種付回数を誇った[36]。その回数の多さや精力絶倫ぶりから、「サラのセイユウ[4]」や、「性豪[41]」の異名を与えられた。吉沢は日本中央競馬会(JRA)のコラムの中で、チャイナロックよりも上がいるなら、それはもう“性神”であろうと述べている[41]。 中村が岩川隆に語ったところによると、陰茎の直径はピース缶ほど、興奮したときのサイズは60cmから70cmにも及んだ[42]。種付の際、サイズが合わず膣に挿入できない牝馬もおり、その場合には一度またがったチャイナロックを降ろし、陰茎が萎んだのを見計らって挿入させる工夫が採られた[42]。また、陰茎にスクーターのタイヤのゴムチューブを巻き、根本まで入らないように調節したこともあったという[43]。 その他、性にまつわるエピソードとして「スピードシンボリの血統上の父はロイヤルチャレンヂャーであるが、実の父はチャイナロックである(スピードシンボリの母スイートインとチャイナロックが“密通”していた)」という噂が流れたことがあった[14][44]。これは場所的、時間的にもあり得ない話ではあったが[注 14]、吉沢によれば、チャイナロックの性豪ぶりから、真顔で信じる者が後を絶たなかったとされる[14]。 産駒成績1960年代※ 重賞競走優勝馬及びJRA賞受賞馬のみ記載
1970年代
母の父としての主な産駒※ GI級競走優勝馬及びJRA賞受賞馬のみ記載
血統表
脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク
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