ハリーファ・ビン・ハマド・アール=サーニー
ハリーファ・ビン・ハマド・アール=サーニー(アラビア語: خليفة بن حمد آل ثاني、Khalifa bin Hamad Al Thani、1932年 - 2016年10月23日[2])はカタールの元首長(アミール)。1972年に首長の座に就き、1995年に息子ハマドに首長の座を奪われた[3]。カタールの現首長タミームの祖父。 名前のうち、ハリーファが個人名。ハマドは父の名で、「ビン・ハマド」はハマドの息子を意味する。 経歴ハリーファは1932年、カタールのライヤーンで生まれた[4][5]。当時のカタールはイギリスの保護国であり、外交権に制限があった。 ハリーファの父ハマドは、当時のカタール首長アブドッラーの息子であり、ハマドは1935年に父から皇太子の指名を受けた。しかしアブドッラー在位中の1948年に死去し、首長の座は翌1949年、ハマドの兄アリーが継いだ。 1957年、ハリーファは教育相に就任[6]。その後、副首長に指名された[6]。 1960年10月24日、アリーが首長を引退し、息子のアフマドが継ぎ、アリーの甥であるハリーファは次期首長に指名された[7]。 ハリーファは1970年5月29日に首相に任命された[6]。カタールは1971年9月3日にイギリスから独立。 1972年2月22日、首長アフマドの政治手腕に疑問を抱いた王族サーニー家の支持を受け[8]、ハリーファが首長に就任[9]。この交代劇を、欧米のマスコミはクーデターと報じたが、カタールの民衆は単なる権力譲渡と受け取った[7]。 首長となったハリーファは政治改革に着手[5]。王族の財産特権の一部を廃止した[7]。さらに外相を兼務[5]。1972年4月19日には憲法を改革、大臣の数を増やして内閣を拡大した。この内閣はその後10年以上改選されなかった。また、外交を重視し、新たに数カ国と大使を交換した。 ハリーファの政治改革により、権力構造に大きな変化が生じた。権力は自身である首長に集中し、皇太子などの権限が縮小した[10] 。 ハリーファは外国の石油会社と共同で油田を開発した。1985年1月に米国のスタンダード・オイル・オブ・オハイオと提携、1986年2月にアモコ と提携した。1989年1月にはフランスのエルフ・アキテーヌと提携。これらの提携により、カタールの歳入が増加した。 1989年7月18日、初の内閣改造が行われ、前任者のほとんどが退任、内閣は15名となった。1992年9月1日に再び内閣改造が行われ、17名となった[11]。 1995年7月、ハリーファが外遊でスイスのジュネーヴに滞在しているとき、息子のハマドが権力を掌握、首長に就任した[12]。その後はフランスに滞在。 2004年にカタールに帰国。 妻と子
ハリーファは4人の妻を持ち、5人の息子と10人の娘がいる。
参考文献
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