フィリップ・ウェンマン (第7代ウェンマン子爵)第7代ウェンマン子爵[注釈 1]フィリップ・ウェンマン(英語: Philip Wenman, 7th Viscount Wenman、1742年4月18日 – 1800年3月26日)は、グレートブリテン王国の政治家、アイルランド貴族。1768年から1796年まで庶民院議員を務めた[1]。 生涯第6代ウェンマン子爵フィリップ・ウェンマンとソフィア・ハーバート(Sophia Herbert、1715年ごろ – 1787年7月19日、フィリップ・ハーバートの娘)の長男として、1742年4月18日にテイム・パークで生まれた[1]。1752年よりウェストミンスター・スクールで教育を受けた後[2]、1760年2月1日にオックスフォード大学オリオル・カレッジに入学、1762年10月29日にM.A.の学位を、1773年7月7日にD.C.L.の学位を修得した[3]。1760年7月16日に父が死去すると、ウェンマン子爵位を継承した[1]。 1768年イギリス総選挙でオックスフォードシャー選挙区から出馬して無投票で当選、以降1774年、1780年、1784年、1790年の総選挙でも無投票で再選した[4][5]。議会では妻の弟にあたる第4代アビンドン伯爵ウィロビー・バーティーと同じく、グラフトン公爵内閣期(1768年 – 1770年)とノース内閣期(1770年 – 1782年)に野党に属し、シェルバーン伯爵内閣期(1782年 – 1783年)に与党に属し、後者ではアメリカ独立戦争の予備講和条約に賛成票を投じた[2]。その後はチャールズ・ジェームズ・フォックスと敵対して第1次小ピット内閣を支持したが、議会で演説したことはなかった[2][6]。晩年は痛風により登院がまばらになり、第4代準男爵サー・ギルバート・エリオットによると1791年の審査法廃止法案に反対したが、このときには「(議会に)全く来ない」(never comes)状態だったという[6]。1796年イギリス総選挙に出馬せず、議員を退任した[5][6]。 1800年3月26日にバースのミルソム・ストリートで死去、テイム・パークの教会に埋葬された[1]。後継者がおらず爵位は全て廃絶[1]、遺産は妹ソフィア(Sophia)の息子ウィリアム・リチャード・ウィカム(William Richard Wykeham、1769年ごろ – 1800年7月1日)、ついでウィリアム・リチャード・ウィカムの娘ソフィア・ウィカムが継承した[1][6]。 家族1766年7月7日にイリナ・バーティー(Eleanor Bertie、1804年4月19日没、第3代アビンドン伯爵ウィロビー・バーティーの娘)と結婚したが[1]、2人の間に子供はいなかった[2]。 注釈
出典
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