フィービ・スノウ (Phoebe Snow 、出生名 : フィービ・アン・ローブ〈Phoebe Ann Laub 〉[ 1] [ 4] 、1950年 7月17日 - 2011年 4月26日 )は、アメリカ の歌手 ・作曲家 ・ギタリスト であり、1975年 のヒット作「ポエトリー・マン」と「ハーポのブルース」、そしてポール・サイモン の「哀しみにさようなら 」での客演で知られている。彼女の歌声は、うなるようなブルース 調の低音から4オクターブ 以上の音域を持っていると、ニューヨーク・タイムズ は表現している[ 5] 。スノウは1980年代から1990年代にかけて、ゼネラル・フーズ・インターナショナル・コーヒー 、サロン・セレクティヴス (英語版 ) 、ストーファーズ (英語版 ) などの数多くのアメリカ製品のコマーシャル・ジングル を歌っている。スノウはオーストラリア で1970年後半から1980年代前半にかけて5枚のトップ100アルバムで成功している[ 6] 。
生い立ち
フィービ・アン・ローブ[ 4] は1950年にニューヨーク で生まれ[ 1] 、デルタ・ブルース 、ブロードウェー のショーミュージック、デキシーランド・ジャズ 、クラシック音楽 、フォーク 音楽が四六時中流れる家庭に育った。
害虫駆除 業者だった父親のメリル・ローブはアメリカの映画と演劇に関する博覧強記的知識を持っており、さらに骨董品の熱心なコレクター・修復家でもあった。彼女の母リリ・ローブは、マーサ・グレアム 舞踏団で演じたこともあるダンス教師だった[ 7] 。スノウはユダヤ人だった[ 8] [ 9] 。
ニュージャージー州 ティーネック で成長し、1968年にティーネック高校を卒業した[ 10] 。
その後、イリノイ州 マウントキャロルのシマー・カレッジに進んだが卒業はしなかった[ 11] 。学生時代、スノウは賞品のマーティン 000-18アコースティックギターを携えてグリニッジ・ヴィレッジ のクラブを渡り歩き、アマチュア・ナイトにギターを弾いて歌った。スノウの芸名はデラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道 の宣伝で使われた架空のキャラクター (英語版 ) に由来する。絵画および後の写真をい印刷した画像では、若い女性の「フィービ・スノウ」が鉄道の客車 の清潔さを強調すべく白いドレスを身に纏っている(当時のラッカワナの機関車は歴青炭 よりも煤煙の発生が少ない無煙炭 を使用していた)[ 4] 。
キャリア
デビューと「詩人」の大ヒット
1972年 、ビターエンド (英語版 ) クラブでシェルター・レコード をレオン・ラッセル と共同で所有するプロモーション担当重役デニー・コーデルに見出されたスノウは、契約後に初めてのレコーディングをチャーチ・スタジオで行なった。[要出典 ] 1974年 にアルバム『サンフランシスコ・ベイ・ブルース (Phoebe Snow)』をリリースした。ゲストにザ・パースエイジョンズ 、ズート・シムズ 、テディ・ウィルソン 、デビッド・ブロムバーグ 、デイブ・メイソン を迎えたこのアルバムは、アメリカ国内で100万枚以上を売り上げ、当時最も評価されたレコードと言われた。[要出典 ]
フィービ・スノウとジャクソン・ブラウンが出演した1975年のコンサートの印刷媒体用広告
『サンフランシスコ・ベイ・ブルース』はビルボード アルバムチャート・トップ5アルバムにランクインしたのに加え、シングル「ポエトリー・マン (Poetry Man)」がビルボードホット100 のトップ5シングルにランクインした。このアルバムでスノウは、グラミー賞 の最優秀新人賞 (英語版 ) にノミネートされた[ 12] 。1975年のヒットシングル「哀しみにさようなら (Gone at Last)」でも共演したポール・サイモン や、ジャクソン・ブラウン とのツアーに同行して前座を務めたスノウは、雑誌『ローリング・ストーン 』の表紙にも登場した。同年の人気番組『サタデー・ナイト・ライブ 』への出演では、ソロおよびポール・サイモン、リンダ・ロンシュタット とのデュエットを披露した。1975年の出演時、スノウは娘のヴァレリーを妊娠7ヶ月だった。ポール・サイモンのヒット曲「恋人と別れる50の方法 」には、ヴァレリー・シンプソン 、パティ・オースティン とともにバッキング・ボーカルとして参加した。この曲と「哀しみにさようなら」はともに、サイモンの1975年グラミー賞受賞アルバム『時の流れに 』に収録されている。
「ポエトリー・マン」以後
シェルター・レコードとの契約のこじれからコロムビア・レコード に移籍したスノウは、1976年 にフィル・ラモーン のプロデュースによるセカンド・アルバム『夜の調べ 』をリリースした。よりジャジーで内省的なこの作品は1976年7月9日にRIAA にゴールドディスク 認定を受けた[ 13] 。よりロック指向のサウンドを目指した『雪模様 』がデビット・ルービンソン のプロデュースにより1976年後半にリリースされた。1977年 には再びラモーンによるアルバム『薔薇の香り』を発表したが、1978年のアルバム『詞華集 』ではバリー・ベケット がプロデュースした。その後、コロムビアを離れたが、このころ重い障害を持つ娘の育児の負担により、音楽活動に力が入らなくなっていったと、のちにスノウは述懐している。[要出典 ] 1979年、スノウは注目株のギタリストであるアーレン・ロス (英語版 ) をリードギタリスト兼音楽監督に採用してアメリカとカナダで広範囲のツアーを行った。ポール・マッカートニー の「エヴリナイト 」の1979年1月のカバーは全英シングルチャート で37位に到達した[ 14] 。1981年 、スノウはミラージュ・レコード と契約し、ビリー・ジョエル のバンドメンバーとレコーディングした、トップ50ヒットとなった"Games"収録のアルバム『ロック・アウェイ』をリリースした。[要出典 ]
1983年 のローリングストーン・レコードガイドでは、「同世代の歌手の中でも天性の素晴らしい声を持ち、スタイルとしても技術的にもどんな歌でも歌えるのだが、未だ答えの出ていない問題は、これほどの才能をどの方向に向かわせればいいのか、ということである」と、この時点でのスノウのキャリアが総括されている。
1980年代 のスノウは長くレコーディングから遠ざかり、自身も重い病気を患いながら、しばしばAT&T ゼネラル・フーズ・インターナショナル・コーヒー 、サロン・セレクティヴス (英語版 ) 、ストーファーズ (英語版 ) その他のCMジングルを、病気の娘の養育費用と生活のために歌うっていた[ 15] 。スノウの歌声は米国綿花法人 (英語版 ) の広告と、同法人の1990年代のThe Fabric of Our Lives キャンペーンにも登場した。1980年代を通して、自身の命に関わる疾病と戦ってもいた[ 15] 。スノウはテレビドラマ『9時から5時まで 』の第1シーズンの主題歌を録音した(第2シーズン以降はドリー・パートンのボーカルが使用された)。スノウはNBC の A Different World の第1シーズン(1987年-1988年)でも主題歌を歌った。
1988年、デイヴ・メイスン (英語版 ) とデュエットした "Dreams I Dream" が米国のアダルト・コンテンポラリー ・チャートで11位に達した。1989年 になってスノウはアルバム『サムシング・リアル (英語版 ) 』で復帰し、さらに数曲のアダルト・コンテンポラリー ・チャートにランクインするヒット曲を生んだ。スノウはまた、1980年にデトロイトのWDIV-TVの "Go 4 It!" キャンペーンの作曲も行った。Reading Rainbow 第10話 The Gift of the Sacred Dog でスティーヴ・ホアリックが作曲した "Ancient Places, Sacred Lands" を歌った。このエピソードはポール・ゴーブル (英語版 ) による同名の本をもとにしてしており、俳優のマイケル・アンサラ がナレーションを担当した。撮影は1983年にモンタナ州クロウ・エージェンシー (英語版 ) で行われた。
スノウは1989年にニューヨーク市のエイヴリー・フィッシャー・ホール のステージで、数ヶ月から発信される5時間のテレビ生中継の『Our Common Future 』の一員として出演した[ 16] 。
1990年 には、エレクトラ 40周年記念アルバム『ルバイヤート』収録曲として、デラニー&ボニー の「Get ourselves together」を、アース・ウインド&ファイアー のギタリスト、ディック・スミス を従えてカバーした。1992年 にはドナルド・フェイゲン の「ニューヨークロック&ソウルレビュー」ツアーに同行し、同バンドのニューヨーク・ビーコンシアター で録音されたライブ・アルバムにも登場した。
この時期、彼女自身の作品のレコーディングは行われていなかったが、フィービはソロ・アーティストとしてのツアーを、アメリカ、イギリス 、ドイツ 、初の来日となった日本 で行なっている。[要出典 ] 1990年代 を通して、スノウはハワード・スターン のラジオ番組に数度に渡って出演した。特別番組やバースデイ番組では生演奏を披露した。1997年、『ロザンヌ 』の最終回のエンディングで主題歌の「ア・カペラ」を歌った[ 17]
1995年にニューヨーク市のリンカーン・センターでの The Wizard of Oz in Concert: Dreams Come True に参加し、代表的なメドレイ「もしも知恵が:ハートが:勇気があったらな」を歌った。さらに、このコンサートにはジュエル 、ジョエル・グレイ 、ロジャー・ダルトリー 、ジャクソン・ブラウン などが出演していた。このコンサートのアルバムはライノ・レコード からCD(R2 72405)としてリリースされた。
スノウはPBSの番組 Sessions at West 54th でスノウの「ポエトリー・マン」の独自のバージョンを即興のデュエットで録音したポップグループのザップ・ママ に参加した。ハワイのガールグループであるナレオ (英語版 ) も「ポエトリー・マン」のカバーバージョンを1999年にアダルト・コンテンポラリー・チャート でヒットさせた。
1998年 、ニューヨーク市長ルドルフ・ジュリアーニ から文化功労賞を授与された。また、ドン・カーシュナー・ロックアワード 、ニューヨーク・ミュージック・アワード 、複数のプレイボーイ・ミュージック・ポール賞やクリオ賞 などを受賞している。1999年 にはキャンプ・デービット でアメリカ大統領 ビル・クリントン 、ヒラリー 夫妻およびクリントン内閣 の閣僚らを前にパフォーマンスを披露している。
2003年 に新曲10曲を納めた14年ぶりとなるオリジナル・アルバム『Natural Wonder』をイーグル・レコード からリリースした。スノウは2008年のハワード・スターン の結婚式で演奏し、さらに映画 Noah's Arc: Jumping the Broom に自分役で特別出演した。スノウの楽曲数曲が同作のサウンドトラックで使用された。2008年 発売ののライブ・アルバム Live にはスノウ自身の数多くのヒット曲とともに「心のかけら 」のカバーが収録されていた。
私生活と死
障害を持つ娘の出産と養育
1975年から1978年(「ポエトリー・マン」のヒットと同時期)、スノウはフォークシンガーのフィル・カーンズ(後にゲイであることをカミングアウト )と結婚していた[ 18] 。1975年12月 に娘ヴァレリー・ローズを授かったが、この子は生まれながら深刻な脳 障害を患っていた[ 8] [ 9] 。スノウは娘を施設に預けないことを決意し、彼女が2007年 3月18日 に31歳で亡くなるまで自宅で看病を続けた。この娘の養育が事実上、スノウを音楽業界での輝かしいキャリアから遠ざけることとなった[ 19] 。スノウはボイスレッスンを続け、非公式にオペラを学んでいた[ 19] 。
スノウはニュージャージー州バーゲン郡 に居住し、後年は仏教 に帰依していた[ 9] 。
死去
2010年 1月19日 にスノウは脳出血 を起こして昏睡 状態に陥り、血液凝固 や肺炎 、心不全 などの合併症 を併発した。2011年 4月26日 、ニュージャージー州 エディソンで、60歳 で死去した[ 20] 。
日本での出来事
2011年 7月 、不祥事 で閣僚 を辞任した松本龍 が、会見で「Never Letting Go」(松本は「ネヴァー・レット・ミー・ゴー」と誤って引用)を引き合いに出したことで、フィービ・スノウの名が改めて広く日本国内で知られることになった。
ディスコグラフィ
アルバム
コンピレーション
The Best of Phoebe Snow (1981年)
P.S. (1995年)
The Very Best of Phoebe Snow (2001年)
Playlist: The Very Best of Phoebe Snow (2012年)
シングル
共演
複数のアーティストによるコンピレーション
1982年: 「9時から5時まで」"9 to 5" (テレビドラマ『9時から5時まで 』テーマソング、第1シーズンのオープニング(1982年 - 1983年)) - ドリー・パートン のカバー
1989年: "Darling Be Home Soon" (映画『乱暴な目覚め』Rude Awakening サウンドトラック) - ラヴィン・スプーンフル のカバー
1990年: "Get Ourselves Together" (アルバム『ルバイヤート』Rubáiyát: Elektra's 40th Anniversary ) - デラニー&ボニー&フレンズ のカバー
1995年: "Merry Christmas Baby" (アルバムWinter Fire & Snow ) - ジョニー・ムーアズ・スリー・ブレイザーズ (英語版 ) のカバー
1997年: "Time and Love" (アルバムTime and Love - The Music of Laura Nyro ) - ローラ・ニーロ のカバー
2002年: 「シングル・アゲイン」(アルバムSincerely -Mariya Takeuchi Songbook- ) - 竹内まりや のカバー
2002年: "Always Here for You" (アルバムOnce in a Lifetime -Mayo Okamoto Songbook- ) - 岡本真夜 のカバー、原題「Dear...」
2003年: "Beams of Heaven" (Shout, Sister, Shout! - a Tribute to Sister Rosetta Tharpe ) - シスター・ロゼッタ・サープ のカバー
2012年: "In My Girlish Days" (....First Came Memphis Minnie ) - メンフィス・ミニー のカバー
脚注
出典
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外部リンク