ピピン家は当初はメロヴィング家の王のもとで、最初にアウストラシア、後にネウストリア及びブルグントの宮宰を勤めた。687年にピピン1世はテルトリーの戦いでネウストリアを征服した後にフランク公(英語版)(dux et princeps Francorum)の称号を用いた。これは同時代の年代記にピピン1世の"統治"の始まりとして記載されている。715年から716年の間、ピピン1世の子孫は後継を巡って対立した。
^ abcdeWilliam Deans; Frederick Martin (1882). A History Of France: From The Earliest Times To The Present Day. 1. Edinburgh & London: A. Fullarton & Co.. pp. 420-1792, Table Of Sovereigns Of France, vi-ix
^Charles Knight, The English Cyclopaedia: Volume IV, (London : 1867); pg 733 「各王国が統一される前、ピピンが752年3月にマインツ司教ボニファティウスによりソワソンで選出されたということ以外、我々はこの重要な出来事に関しての記録が見つけられていない。」
^Claudio Rendina & Paul McCusker, The Popes: Histories and Secrets, (New York : 2002), pg 145
参考文献
Colin Jones, The Cambridge Illustrated History of France, Cambridge University Press, 1999.
Edward James, The Origins of France: Clovis to the Capetians 500-1000, Palgrave, 1989, ISBN 0-333-27052-5
Paul Fouracre & Richard A. Gerberding, Late Merovingian France: History and Hagiography, 640-720 (Manchester Medieval Sources), 1996, ISBN 0-7190-4791-9
W. Kibler & G. Zinn, Medieval France: An Encyclopedia, Garland Publishing, 1995.
一次資料
『フランス大年代記(Grandes Chroniques de France)』の中で述べられているフランスの歴史。そして特に1370年から1380年にかけてフランス王シャルル5世のために作られた写本で、これはメロヴィング朝、カロリング朝およびカペー朝の3つの王朝の物語であり、王国の成立と国境について書かれている。この写本はフランスとイングランドがフランス王位継承を争った百年戦争中に作られたものであり、成立時の時代背景のバイアスがかかっていることに注意して読む必要がある。