ブリティッシェ・ツォーネンマイスターシャフト
ブリティッシェ・ツォーネンマイスターシャフト (Britische Zonenmeisterschaft) とは連合国軍分割占領期のドイツにおける、イギリス占領地域で開催されたサッカー大会である[1]。その他の占領区域 (米国・フランス・ソビエト連邦、四か国共同管理地区ベルリン) における大会と並んで、ツォーネンマイスターシャフトと呼称される大会の一つであり、また西ドイツの初代最上位サッカーリーグ、フースバル・オーバーリーガの創設とも関係している。 イギリス占領区域 (アメリカ占領区域の飛び地ブレーメンを含む[2]) では、1946年初頭の占領区域スポーツ委員会の指示の下、限定された準地域レベルの範囲のみ、スポーツ大会開催が許可された。占領区域全体は勿論の事、「北部選手権」なども禁止である。1945年12月17日の連合国管理評議会・追加政令第23号は、とりわけローカル的な性質のスポーツ運営組織は、その統括権をクライスに限定した[3] 。 実際、クライスという言葉が相対的かつ全般的に翻訳されて使われ、ハンブルクサッカー協会では州 (=市) 選手権が行われ、ニーダーザクセンサッカー協会が統括する同州南部ではオーバーリーガが創設された。しかしクライスを超える領域、たとえば北部全体の王者決定を目指したノルトドイチェ・マイスターシャフトは、イギリス占領当局の指示で中止されている。 占領開始から2シーズン目の1946-1947シーズン、初めて占領区域全体の大会、「北西区域選手権」 (Nordwest-Zonenmeisterschaft) が開催された。3シーズン目には、ドイツサッカー協会が運営するフースバル・オーバーリーガ・ノルト、およびフースバル・オーバーリーガ・ヴェストが創設され[4]、占領区域選手権の北部と西部を包括した。これにより、もはや州・クライス・地区レベルのリーグを、最上位カテゴリーに据える必要は無くなったのである。さらに、1947-1948シーズンの占領区域選手権は、その最終シーズンを迎えるとともに、戦後初開催となったドイチェ・フースバルマイスターシャフト1947-1948の出場権争いも兼ねていた[5]。 1945/46上記の通り、占領開始から最初の一年間は、ハンブルクとニーダーザクセン南部を除いて、地区・クライスのサッカーリーグが最上位カテゴリーであった。対照的に、アメリカ占領区域では1945年11月にフースバル・オーバーリーガ・ズュート、フランス占領区域では1946年1月にフースバル・オーバーリーガ・ザール=プファルツ=ヘッセン (オーバーリーガ・ズュートヴェスト)が、すでに創設されていた。イギリス占領当局が許可したのは、それらをずっと下回る範囲の大会に限られており、北部では9つ、西部では6つの大会が開催された。いくつか大会名を紹介すると、シュタットリーガ・ハンブルク (市リーグ)、シュタットマイスターシャフト・リューベック (市選手権)、マイスターシャフト・デス・クライスシュポルトフェアバンデス・リューベック (郡スポーツ協会選手権)、といった具合である。
ニーダーラインだけは、1リーグ構成でなおかつ勝ち点で王者を決めることができた。しかし、北部全体の王者を決めるノルトドイチェ・マイスターシャフトは占領当局の指示で打ち切られ、つまり1945-1946シーズンには、イギリス占領区域全体の王者を決める大会は無かったのである。ただし、その個々のパーツとなる部分は作られた。 北部1945-1946シーズンの各リーグ王者は以下の通り。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン占領初期のシュレースヴィヒ=ホルシュタインでは、その他の北ドイツの占領区域と同じく、キールとリューベック周辺の群・地区に限り、勝ち点制リーグ戦の開催が可能であった。対して州の南西部では、定期的な試合・大会は一切行われていなかった。ただし、ハンブルク周辺の複数クラブが、ここで試合をしていた。伝統的にもよくあった事なのだが、彼らはハンブルクサッカー協会の最上位リーグに所属していなかった。勝ち点制のリーグ戦で、優勝クラブは決定した。しかし、かなりの短期間で開催される北ドイツ選手権に間に合わせるために、さらにイギリス占領当局がいくつかの場所でリーグ続行を禁止したこともあって、すべての試合が行われたわけではなかった[6][7]。 厳密に言えば、地区は1948年以降に作られたもので、州サッカー協会傘下の地区協会 (1947年設立の州リーグを除いて)に、大会運営の権限があった。しかしそれでも、時折メディアでは1948年以前に地区という言葉は使われていて、それというのも、1946年に作られたリーグのいくつかは、すでに地区境界線を超える範囲で開催されていたからである。 ベツィルク・ノルト
ベツィルク・オストB
ハンブルク終戦直後の時期にシュタットリーガ・ハンブルク、またはハンブルガー・リーガ参入を争う予選が行われた。ハンブルクにおける現時点での最上位リーグである。1947年には2グループ編成となり、1950年には1グループ編成のアマトゥーアリーガとなった。現在、オーバーリーガ・ハンブルクとなっている。
ニーダーザクセン (ブレーメン含む)現在のニーダーザクセン州 (この当時プロヴィンツ・ハノーファー、自由都市ブラウンシュヴァイク、自由都市オルデンブルク、シャウムブルク=リッペが存在した) を包括する大会は許可されなかった。南部では、オーバーリーガ・ズュート=ニーダーザクセンが開催された。戦前の1942年に分割された、deの領域とほぼ一致している。 ほかにはブレーメン、オスナブリュック、リューネブルク圏などでリーグ戦が開催された。ちなみにブレーメンはアメリカ占領地域に属するが、スポーツ的にはイギリス占領地域の一部であった[10]。 オーバーリーガ・ニーダーザクセン=ズュート[11]
入れ替え戦はVfBパイネがブランスヴィックと2-2で引き分け、ヒルデスハイムに3-1で勝利し、勝ち点3で残留した。TuSpoホルツミンデン、ATSVニーンブルク、MTVブラウンシュヴァイクが昇格した。 シュタットマイスターシャフト・ブレーメン (決勝リーグ)
ブレーマーSVは勝った2試合の勝ち点を没収された。翌日開催の最後の試合は (1946年9月21日)、ヴェルダー・ブレーメンが2-1でブレーマーSVに勝った。ヴェルダー以外の得失点は不明、取り消された試合は0-0とカウントしている。 シュタットマイスターシャフト・オスナブリュック
ベツィルクマイスターシャフト・オストハノーファー
北部選手権・決勝トーナメント途中で打ち切られたことからわかるように、イギリス占領当局との開催交渉は困難を極めた[6]。占領当局は範囲の小さなリーグ戦しか許可せず、それを超える大会は認めるわけにいかなかったが故に、準々決勝で打ち切られたのである。キールの2クラブは事前に試合を止められ、また理由は不明だがTuSハシュテは棄権した。
1回戦:
準々決勝: (名目上は親善試合)
西部1945-1946シーズンの各地区王者は以下の通り。
ヴェストファーレンランデスリーガ・ヴェストファーレンの初年度である。1945年9月、ガウリーガ・ヴェストファーレンの所属クラブをそのまま引き継いで発足し、当初の名称は「1.ディヴィジオン・ヴェスト」であった。開幕は1946年2月で、18クラブを東と西の2グループに分けてリーグ戦を行った。グループ1位となったのは、FCシャルケ04とSpVggエアケンシュヴィックだったが、イギリスの規制により、両者がヴェストファーレン王座をかけて対戦することは、許されなかった[12]。 グループ1
グループ2
ミッテルライン1グループのリーグ戦で、アーヘン及びオーバーベルクのクライスでは前段階の予選が行われている。当時の常として、勝ち点が並んで優勝が決まらなかった際には、順位決定戦が行われた。しかし、デューレンとトロイスドルフの決定戦は延長を経ても2-2で、決着がつかなかったので、結局得失点差を活用することになり、デューレンが優勝した。
ニーダーラインニーダーライン地域は4つの地区大会に分かれ、決勝トーナメント進出権を争った。さらに地区大会以前の段階として、クラブの多いデュイスブルクとデュッセルドルフでは、市内予選も行われている。 ベツィルク・ベルク=マルク
2回戦:
準決勝
決勝
ベツィルク・レヒター・ニーダーライン
決勝トーナメント上記4つのベツィルクを勝ち抜いたクラブがトーナメントで対戦し、ニーダーライン王者を決める。 準決勝:
決勝:
1946/47アメリカとフランスの占領地域より遅れて、各地ともリーグ戦形式が整えられた。各地区の上位チームが集まってそれぞれベツィルクスリーガを編成、都市・地区・クライス単位のリーグ戦に取って代わった。ベツィルクマイスターシャフト (地区選手権) を制した5つの地区王者は、占領地域決勝大会に直接出場し、準王者たちは予備予選に回る。また、各地のリーグは翌年から始まるオーバーリーガの参入権争いを兼ねて行われており、全国大会復活を視野に入れた「準備段階」に入った[13]。 1946/47シーズンの州王者:
西部:
北部シュレースヴィヒ=ホルシュタインランデスマイスターシャフト・シュレースヴィヒ=ホルシュタインの決勝リーグに相当する。20クラブが参加したトーナメントから、4クラブが勝ち残った。決勝リーグはホームアンドアウエー方式で、VfBリューベックがランデスマイスターとなり占領地域決勝トーナメント進出、2位のホルシュタイン・キールは予備予選に回った。また、結果的に両者はオーバーリーガ・ノルト初年度参入が決まった。
ハンブルクシュタットリーガの2シーズン目は、FCザンクト・パウリが優勝した。
ニーダーザクセン (ブレーメンを含む)この地域では、昨季既に実施されていた南部グループに加えて、北部グループも開催された。両グループの勝者同士が対戦し、ヴェルダー・ブレーメンがこれを制した。 オーバーリーガ・ニーダーザクセン=ノルト
北部決勝
西部ヴェストファーレンヴェストファーレン州1部リーグ、ランデスリーガ・ヴェストファーレンに相当する。東と西に分かれてリーグ戦を行い、昨季開催されなかった王者決定戦に、双方の1位が進出する。ボルシア・ドルトムントが3-2でFCシャルケ04を下し、第二次大戦後の初代ヴェストファーレンマイスターとなった[15]。ドルトムントは占領地域決勝大会に進出決定、シャルケは西部予備予選に回った。 グループ1 (西)
グループ2 (東)
決勝
ミッテルライン昨季とは異なり、1グループにまとめたリーグ戦である。VfR1904ケルンが優勝した。
ニーダーライン4つのベツィルクスリーガを勝ち抜いたクラブが決勝リーグで対戦し、ロートヴァイス・オーバーハウゼンが優勝、占領地区決勝大会にコマを進めた。
西部1位決定戦
西部3位決定戦
占領地域決勝トーナメントブリティッシェ・ツォーネンマイスターシャフト1946-1947は、8チームによるトーナメントで争われる。直接エントリーできるのは、西部の各州リーグ王者3チーム、ニーダーザクセンの上位2チームである[5]。残りの3チームは予備予選で決められる。西部各州準王者による一回総当たり戦から1チーム、ハンブルクとシュレースヴィヒ=ホルシュタインの王者・準王者の襷掛け対戦から2チーム。 シュタットリーガ・ハンブルクで優勝できず、本大会もこの予備予選から勝ち上がったハンブルガーSVが、初代の占領地域王者となった[1]。決勝ではボルシア・ドルトムントを1-0で下した。 予備予選西部準王者ラウンド
ハンブルク・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン
準々決勝
再試合
準決勝
3位決定戦
決勝
決勝戦に出場したHSVの選手11人の平均年齢は31歳2か月だが、決勝ゴールを決めたアルフレート・ボラーは24歳で、チーム最年少だった。 HSVの選手: ヴァルター・ヴァーニンク – リヒャルト・デルフェル, ヘルベルト・ホルト – ハインツ・ヴェルナー, エアヴィン・ラインハルト, エアヴィン・ゼーラー – フリード・デルフェル, アルフレート・ボラー, ジークフリート・イェッセン, ハインツ・シュプントフラッシェ, エーリヒ・エーベリンク. 1947/48イギリス占領地区には、オーバーリーガ・ノルトとオーバーリーガ・ヴェストが創設された[4]。既に発足していた他のオーバーリーガと並んで、西ドイツ時代の1963年まで続く最上位リーグである。その下の2部リーグとして、占領地域全体でランデスリーガ (北部の一部地域では1.アマトゥーアリーガ) も作られた。もはや郡・地区単位のリーグは開催されず、ランデスマイスターシャフト (州選手権) に置き換えられた。そこで各ランデスリーガ (州リーグ) 勝者が対戦し、毎年定期的に行われるオーバーリーガ昇格プレーオフ出場を目指す。 8クラブが決勝トーナメントに進出し、最後のイギリス占領地域マイスターシャフトを戦った。出場するのは、オーバーリーガ・ノルトとヴェストから4クラブずつ[5]。 昨年と同じく、ハンブルガーSVがイギリス占領地域王者となった。決勝はダービーマッチとなり、HSVがFCザンクト・パウリを6-1で下した[1]。なお両者とも、決勝に進出した時点でドイチェ・フースバルマイスターシャフト1947-1948出場を決めている[5]。 出場クラブ
準々決勝
準決勝
再試合
3位決定戦準決勝で敗れた2チーム間の合意で行われた試合であり、公式的なものではない。
決勝
参考文献
脚注注釈出典
参考文献
外部リンク |
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