ロンドンのベルギー政府
Gouvernement belge à Londres (フランス語 ) Belgische regering in Londen (ドイツ語 )
ユベール・ピエルロ (英語版 ) (左) 、亡命政府の首相、1944年4月
第4次ピエルロ政権 としても知られるロンドンのベルギー政府 (フランス語 : Gouvernement belge à Londres 、オランダ語 : Belgische regering in Londen )は、第二次世界大戦 期の1940年10月から1944年9月までのベルギー の亡命政府 であった。政府はカトリック党 (英語版 ) と自由党 (英語版 ) 、労働党 (英語版 ) 出身の閣僚が関わる3党政治であった。1940年5月にナチス・ドイツ がベルギーに侵攻 すると、ユベール・ピエルロ (英語版 ) 首相のベルギー政府は、初めフランス のボルドー に逃げ、それから連合国 に対してベルギー唯一の正当な代表として確立するロンドン に逃げた。
最早自国に権限がないとはいえ、政府はベルギー領コンゴ を統治し、戦後の再建について他の連合国と交渉を行った。戦時中の亡命政府が行った合意にベネルクス関税同盟 の創設や国際連合 へのベルギーの加盟があった。政府はベルギー亡命軍 (英語版 ) にも影響力を発揮し、地下抵抗運動 (英語版 ) とのつながりを維持しようと試みた。
背景
政治的にベルギーの政治は、通常ベルギー労働党 (英語版 ) (POB-BWP)や自由党 (英語版 ) と連立を組みながら戦間期はカトリック党 (英語版 ) に支配されていた。1930年代はベルギー国内でもファシズム 政党の人気が高まり、最も知られたところではレクシズム が11%の得票で1936年の選挙 (英語版 ) で頂点に達した[ 1] 。1930年代前半からベルギーの外交政策と国内政策は、中立政策に支配されていて、国際条約や同盟を離脱し、イギリス やフランス、ドイツのいずれとも良い外交関係を維持しようと試みた[ 2] 。
この政策にもかかわらずベルギーは1940年5月10日にドイツ軍に警告なしに侵攻された。18日戦争 後、ベルギー軍は5月28日に降伏し、ベルギーはドイツ軍政府の支配下に置かれた。60万[ 3] から65万人の[ 4] ベルギー人男性が(ベルギーの男性人口の約20%)[ 4] 戦闘に動員されていた。
王室が政府と一緒に亡命したオランダ やルクセンブルク と違い、レオポルド3世王 は(政府の助言とは反対に)自分の軍と一緒にドイツに降伏した。降伏する前に決して現実のものにならなかったが伝えられるところでは親ナチス派の社会主義者アンリ・ド・マン (英語版 ) の下で新政権を樹立することを試みた[ 5] 。戦争の残りの期間自宅軟禁されてドイツの捕虜になった[ 5] 。政府はフランスの亡命先からちょっとの間ドイツ当局と交渉を試みたが、ドイツ当局はベルギー政府職員がベルギーに戻ることを禁ずる布告を発布し、対話は禁止された[ 6] 。
ロンドンで政権樹立
フランスへの避難
政府が1940年に樹立され1944年9月まで存続したロンドンのイートン広場 (英語版 ) の北側
フランスのベルギー政府は、戦いを続けるフランス帝国に対するフランスのポール・レノー 政権に続くつもりでいた[ 6] 。政府は短期間フランス政府の圧力の下レオポルドの降伏を公然と非難したリモージュ に作られた[ 7] 。軍事政権が貴族で経験を積んだ兵士のアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン 将軍の管理下に置かれた[ 8] 。しかしレノーが親ドイツ派のフィリップ・ペタン に置き換わると、この案は廃止された[ 6] 。新しいヴィシー政権 からの敵愾心がある一方で、ピエルロ政権はフランスに留まった。1940年9月16日の手紙で、ペタン政権は当時依然としてボルドーにいるベルギー政府の解体を要求した。
これまでしばらくの間、純粋に机上の存在であった、フランスにて活動中のベルギー政府は自主的に解散することになるだろう。
メンバーはフランスに一私人としてとどまるだろうし、海外に移動するだろう。決定は、ドイツに占領された国の外交的任務を抑圧する一環であり、
帝国 によりフランス政府にその必要性を指摘されてきたものである。
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ヴィシー政権からの手紙(1940年9月16日)[ 9]
ロンドンへ移動
ピエルロの政府が依然フランスにいる一方で、ベルギーの保健相マルセル=アンリ・ジャスパール (英語版 ) は、6月21日にロンドンに到着した。ジャスパールはピエルロ政権はドイツに降伏するつもりでいると考えていて、それを阻止することを決心していた。ジャスパールはシャルル・ド・ゴール と会談し、6月23日に英国放送協会 のラジオで個人的に戦いを続ける代替政権を組織しようとしていると述べる演説を行った[ 5] 。その立場はボルドーのピエルロ政府から非難され、ロンドンのベルギー大使エミール・ド・カルティエ・ド・マルシエンヌ (英語版 ) から冷たい扱いを受けた[ 5] 。他の所謂「ロンドン叛徒」と共にアントウェルペン の社会主義バーゴマスター (英語版 ) カミーユ・ユイスマンス (英語版 ) が加わったジャスパールは、1940年7月5日に政権を樹立した[ 5] 。しかしイギリスはジャスパール・ユイスマンス政権を承認するのに気乗りがしなかった[ 5] 。
ピエルロ政府の権威に対する挑戦は、政権を行動に駆り立てた[ 5] 。ピエルロの植民地担当大臣アルベール・ド・ヴレースカウヴァー (英語版 ) はジャスパール・ユイスマンス政権が樹立された同じ日にロンドンに到着した[ 5] 。ベルギー本国以外で法的力を有するベルギー唯一の閣僚として、自分自身の主導権を握ってほどなく到着したカミーユ・ギュット (英語版 ) と共にド・ヴレースカウヴァーはロンドンでイギリスの承認を得て臨時の「二人政権」を樹立できた。二人は参加する為にフランスから移動途中に フランコ体制下のスペイン で拘束されていたポール=アンリ・スパーク とピエルロを待った[ 5] 。ピエルロとスパークがロンドンに到着した1940年10月22日が、ベルギーの最後の公選首相という正統性をもった「公式の」政府となる「四人政権」時代の始まりとなった[ 5] 。イギリス政府はベルギーの大臣の多くや政府自体の正統性や規模に不信があったが、首相の到着を以て消極的に受け入れた。
ベルギー政府の大部分は、戦前にベルギー大使館があったロンドンのベルグレイヴィア 地区のイートン広場 (英語版 ) に落ち着いた。他の政府部門は、ホバート宮殿やベルグレーヴ広場 (英語版 ) 、ナイツブリッジ 近くに落ち着いた[ 10] 。ベルギー政府の事務所は、ウィルトンクレセント (英語版 ) のルクセンブルク や[ 11] ピカデリー のオランダ (英語版 ) [ 12] などの他の亡命政府の近くにあった。
1940年12月までにイギリスは「四人政権」を他の亡命政府と同じ立場で合法的な代表として承認した。
陛下の政府 は、4人のベルギー人大臣により構成されるロンドンのベルギー政府を、ベルギーの正統で合憲的な政府であり、ベルギーの主権国家の名において
全権 を行使するものとして適格であると見なす
[ 13] 。
構成
当初は閣僚は4人であったが、政府は間もなく多くの人が参加した。亡命政府には数多の政府部門に政治家や公務員の双方がいた。殆どは植民地省や財務省、外務省、防衛相に集中していたが、多くは最小限の職員がいた[ 14] 。1941年5月までに最大でロンドンの政府では約750人が働いていた[ 14] 。
「四人政府」
バルセロナのマジェスティックホテル (英語版 ) 。ピエルロとスパークは、1940年秋にホテルでスペイン警察の監視から抜け出して、イギリスに逃亡した。このことは建物の銘板 により記念されている。
無任所大臣
フランス滞在中の代議院議長 (英語版 ) フランス・ヴァン・コーヴラール (英語版 ) (1940年6月)。ニューヨーク で政府の他の人から離れて戦争時代を過ごした。
変更
1942年2月19日
1942年10月2日
1943年1月
1943年5月3日
1943年4月6日
1943年7月16日
1943年9月3日
1943年3月30日
1944年6月6日
役割
亡命政府は国民政府の機能を果たすものと思われたが、「ベルギーの名前で語る資格を与えられた全てである合法的で自由なベルギーに残る全てはロンドンにある」と意見を述べるポール=アンリ・スパーク を引っ張るベルギーの関心事も連合国に対して代表していた[ 17] 。
ランスロット・オリファント (英語版 ) 大使の下でイギリスの外交使命は、亡命政府に参加することであった[ 18] 。1941年3月、アメリカもベルギー、オランダ、ポーランド 、ノルウェー (英語版 ) の亡命政府にアメリカ合衆国を代表するアンソニー・ビドル・ジュニア (英語版 ) 大使を送った[ 18] 。ソビエト連邦 は(当時有効な独ソ不可侵条約 に酷く影響されて)1941年5月にベルギーとの外交関係を破棄したが、バルバロッサ作戦 の余波で亡命政府に公使館を再開し、結局1943年に在外公館 の格上げを行った[ 18] 。
ベルギー難民
1940年のロンドン のベルギー難民の子供達
1940年の亡命政府に直面する最も緊急の憂慮の一つは、イギリスのベルギー難民の状況であった。1940年までに少なくとも15000人のベルギー市民がイギリスに到着し、その多くが資産を持っていなかった[ 19] 。難民はイギリス政府が扱っていたが、1940年9月、政府はイギリスのベルギー人に物資援助や雇用を提供する中央難民部を創設した[ 20] 。
ベルギーが1940年に連合国を裏切ったとの信念からイギリス大衆は1940年のベルギー難民に並々ならぬ敵意を抱いた[ 21] 。イギリスの世論調査プロジェクトであるマス・オブザベーション (英語版 ) のレポートは、イギリスにおける「ベルギー難民に対する悪感情の増加」を記しており[ 22] 、それはレオポルド3世の降伏決定に密接に関連していた[ 23] 。
政府はベルギー難民に対する社会・教育・文化に関する機関の提供にも関わった。1942年、政府はロンドンのベルギー難民社会を扱うロンドンのベルギー協会 (英語版 ) 創設を発起した[ 14] 。1943年までにペンリス (英語版 ) やブレーマー (英語版 ) 、キングストン (英語版 ) 、バクストン (英語版 ) に学童330人を有するイギリスのベルギー人学校4校があった[ 24] 。
自由ベルギー軍
フランスのラジオ放送でベルギーが降伏して間もなくピエルロは戦いを続けるために亡命軍を創設することを呼び掛けた。
ロンドンのヴィクトル・ヴァン・ストリドンク・ド・ブルケル (英語版 ) (1943年)。ヴァン・ストリドンクは1918年の優勢な騎兵攻勢 (英語版 ) で男爵 になっていた。
政府の呼び掛けに応える同じ若々しい勇気とともにフランスやイギリスのベルギー軍を再結成しながら新たな軍が召集され組織される。連合軍と共同で調和し…全軍が我々のものとなった運動に置かれる。…速やかに重要な方法で支援を与える部隊と連合し続ける連帯を保証することが重要である。…
既にイングランドに住んでいるベルギー人亡命者同様にダイナモ作戦 でダンケルク から救出されたベルギー軍とともに亡命政府はウェールズのテンビー (英語版 ) にCamp Militaire Belge de Regroupement (CMBR、「ベルギー再編成軍」)創設を承認した[ 26] 。1940年7月までに部隊はベルギー人462人を数え、1940年8月までに約700人に上った[ 26] 。この兵士は8月に第1フュージリア大隊として組織され、政府は司令官としてラウル・ドーフレスヌ・ドゥ・ラ・シュヴァルリー を、新設軍の監察長官としてヴィクトル・ヴァン・ストリドンク・ド・ブルケル (英語版 ) を任命した[ 27] 。ベルギー空軍はイギリスの戦いに参加し、ベルギー政府はイギリス海軍 におけるベルギー人部隊創設同様にイギリス空軍 内にベルギー人だけの飛行中隊2個中隊の創設に向けて後に成功裏に働きかけられた[ 28] [ 29] 。
戦争の初めの頃は政府と国王の忠義を分ける僅かな緊張が政府と軍の間に存在した。自由ベルギー軍特に1940年から訓練を受けてきた歩兵は、戦えない責任を政府に負わせた。1942年11月、ベルギー兵12名が政府の活動を非難して反乱を起こした[ 16] 。1943年までに軍の王党派の立場は、政府が軍の支援を取り戻すことを認めて軟化した[ 30] 。
条約と交渉
1942年の宣言 に署名したベルギーを含む「連合国」の旗を描いたポスター
1941年9月、ベルギー政府は他の亡命政府と共同でロンドンで連合軍が戦後に到達するよう求める共通の目標を示した大西洋憲章 に署名した[ 31] 。翌年、政府は1942年1月に他の26か国とともに1945年の国際連合 創設の前例をおぜん立てすることになる連合国共同宣言 に署名した[ 32] 。
1944年から連合軍は益々戦後ヨーロッパの枠組みに存在する問題に憂慮することになった。これは1944年からの数多の条約や合意を通じて具体化された。1944年7月、カミーユ・ギュットはベルギー政府のために通貨管理のブレトン・ウッズ体制 を作るアメリカ合衆国のブレトン・ウッズ会議 に出席した。交渉に際してギュットは主要な連合軍の代表の重要な仲介役を果たした[ 33] 。合意を通じて会議がギュットが初代長官を務めることになる国際通貨基金 (IMF)も創設する一方でベルギーフランの交換レートは、戦後アメリカ合衆国ドル に連動することになった[ 34] 。
1944年9月、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの亡命政府は、ベネルクス関税同盟 結成に関する合意を考案し始めた[ 35] 。合意はベルギー政府が解放後ブリュッセル に戻る直前の1944年9月5日にロンドン関税会議 (英語版 ) で署名された[ 36] 。ベネルクス関税同盟はベルギーとルクセンブルクの戦前の同盟 (英語版 ) を大幅に拡張し、後に1958年からのベネルクス経済同盟の基礎を築くことになる[ 35] 。
権限
連合軍からの金融支援に専ら頼らざるを得なかった他の多くの亡命政府と違い、ベルギー亡命政府は独立して資金を手に入れられた。かなりの部分でこれはベルギー亡命政府が金 の備蓄の殆どを管理できたことによった。これは秘かに海軍トロール船A4 (英語版 ) に載せて1940年5月にイギリスに移し、重要な資産を提供した[ 37] 。ベルギー政府は連合軍が戦争活動のために頼りにした(天然ゴム (en:Natural rubber )や金、ウラン などの)大量の天然鉱物を輸出するベルギー領コンゴ の支配もしていた[ 37] 。
ベルギー政府は自身の機関誌 Moniteur Belge (英語版 ) をロンドンから発行した[ 38] 。
立場
レオポルド3世との関係
1934年に撮影されたレオポルド3世王 は、亡命する政府に従うよりも捕虜としてベルギーに残る道を選択した。
立憲君主制にもかかわらず、ベルギーの国王は、戦前ベルギーにおいて重要な政治的役割を占めていた。閣僚への相談なくドイツに降伏するレオポルド3世の決定は、ベルギー内閣を憤慨させた[ 5] 。国王の明らかな反対は、信頼と正当性を損なった。戦争の初めのころ、国王はロンドンの正式な政権を更に損なうことに務める自由ベルギー軍を含めた多くの人から「政府」の別の形態と見られた。後に戦時中に政府は国王に対してあまり好戦的ではないという立場を変更した[ 5] 。その代わりに当時のベルギーの宣伝は、国王の立場を「殉教者」や捕虜として強調し、占領された国土のように同じ殉難を共有する者として表現した[ 5] 。1941年5月10日(ドイツ侵攻1周年)のラジオ演説で、ピエルロはベルギー人に「捕虜になった国王の周りに結集しよう。殺される国土を体現している。我々がここにいるように王に忠誠を誓おう」と呼び掛けた[ 39] 。
1831年憲法 (英語版 ) によると、統治能力がないと宣言されれば、ベルギー政府は国王の意思に優先することができた[ 40] 。1940年5月28日、フランス政府の圧力を受けて、強力な法的基盤を与え政府の唯一の公的な源にしながら、フランスのピエルロ政権は、国王は侵略者の支配を受け82条により統治するにふさわしくないと宣言した[ 7] [ 40] 。しかし政府は共和制を宣言することは拒否した[ 7] 。厳密に言えば国王は公使を受け入れ条約を締結できる唯一の人物であり続けたが、亡命政府は戦争中独自に両方ができた[ 13] 。
ベルギーに戻ると、王政の問題は、議論が続き、解放間もない1944年9月20日、レオポルドの兄弟シャルル・ド・ベルジック は摂政皇太子 を宣言した[ 41] 。
抵抗運動との関係
「我々はドイツの束縛からの解放をもたらすであろうイギリスの力に完全な信頼を置いている。…些細だが、まったく顧みられないほどではない資源のある限り、この戦いの名誉と重荷を共有する権利を主張する。我々は敗北主義者ではない…」
1940年6月23日のラジオ放送におけるカミーユ・ユイスマンス (英語版 ) [ 5]
ジャスパール=ユイスマンス政権は1940年のフランスの降伏 前にロンドンから占領されたベルギーでの組織された抵抗運動の開始を呼び掛けた。
ロンドンに到着してから正式な政権は、BBCのRadio Belgique による放送である占領されたベルギーに向けたフランス語とオランダ語のラジオ放送に関する管理ができることになった。ラジオ局は抵抗運動を保つのに必須であり、等しく公開され、記者のポール・レヴィ (英語版 ) の管理下に置かれた[ 42] 。ラジオでのこうした働きの中にニュースリーダー として働き「勝利に向けたV 」キャンペーンを考案したとされる元閣僚ヴィクトル・ド・ラヴレイ (英語版 ) がいる[ 43] 。
戦争の初めの頃、政府は占領されたベルギーの抵抗運動と接触するのが困難なのに気付いた。1941年5月、秘密軍 (英語版 ) グループが接触を始めようと試みて隊員を派遣したが、ロンドンに着くのに丸1年かかった[ 44] 。無線交信は1941年後半に簡潔に始まったが、1942年から1943年にかけて非常に断続的に行われた。最大グループ秘密軍 (英語版 ) との永続的な無線交信は(コードネーム:「スタンリー」)、1944年に始まっただけであった[ 44] 。
ブリュッセル の北の田園地帯での英軍機による抵抗運動に向けた補給物資
ベルギーの事件から亡命政府が明らかに孤立していたことは、特に政策が樹立された政権と異なる多くの抵抗運動組織が疑いの目で見ていたことを示していた。その中で政府は抵抗運動組織が政府の立場に挑戦し政治的安定に脅威を与えながら解放後に抑制のきかない民兵 に転ずることを恐れた[ 45] 。対して抵抗運動は頻繁に亡命政府やイギリスの特殊作戦執行部 (SOE)のみが供給できる資金や装備、補給物資に頼っていた[ 44] 。戦争の流れの中で亡命政府は単独でArmée Secrète に対してパラシュートで投下するか中立国のポルトガル (英語版 ) を通じて資金移転をすることで1億2400万~2億4500万フラン を提供した。これより少ない額が他の組織に提供された[ 44] 。
亡命政府はレジオン・ベルジュ やベルギー国民運動 (英語版 ) 、グループG (英語版 ) 、独立戦線 (英語版 ) などの主要な組織の代表から成る「共同委員会」を創設することで1944年5月に抵抗運動との関係を再構築することを企図した[ 46] 。しかし委員会は9月の解放で不要になった。
ベルギーへの帰国
「誰も我々の到着に気づいていなかった。ジープに先導されて、我々は車両に乗って町に入った。仲間の一人は立ち上がって、通りすがりの市民に対して、「政府が戻ってきた」と叫んだ。それに対する反応はまったくなく、敵意も熱狂もなく、完全に無関心そのものであったことを私は白状しなければならない。」
ポール=アンリ・スパーク :政府のブリュッセル帰還に関して[ 5]
連合軍は1944年9月1日にベルギーに入城した[ 47] 。9月6日、ウェールズ防衛隊 (英語版 ) が首都ブリュッセル を解放した[ 47] 。亡命政府は1944年9月8日にブリュッセルに帰還した[ 19] 。通貨供給を制限することで 解放されたベルギーの激しいインフレーション を無効にするためにカミーユ・ギュットにより考案された案「ギュット作戦」が大成功をおさめながら実行に移された[ 48] 。
9月26日、ピエルロはブリュッセルに挙国一致内閣 (第5次ピエルロ内閣)の新政権を樹立した。新政権にはロンドン時代からの(「4人」の全員などの)閣僚の多くがいたが、初めてベルギー共産党 (英語版 ) も含んでいた[ 49] 。1944年12月にピエルロは依然首相であったが、三頭政権が樹立された。1945年に1939年以来首相であったが、ピエルロは遂に首相の座を社会主義者アキレ・ヴァン・アッケル (英語版 ) に譲った[ 50] 。
亡命政府は結成からベルギーを統治した伝統的な政党が依然存在する最後の政権の一つであった。1945年、POB-BWPは党名をベルギー社会党 (英語版 ) (PSB-BSP)に変更し、カトリック党はキリスト教社会党 (英語版 ) (PSC-CVP)になった[ 51] [ 52] 。
関連項目
第二次世界大戦における、他国の亡命政府
参照
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参考文献
概観
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外部リンク