ホセ・メンデス
ホセ・デ・ラ・カリダド・メンデス・バエス(José de la Caridad Méndez Baez , 1887年3月19日 - 1928年10月31日)は、キューバのマタンサス州カルデナス出身のプロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。愛称は黒いダイヤの意味である"El Diamante Negro"(エル・ディアマンテ・ネグロ)。 経歴1907-1908シーズンにキューバ国内リーグ"リーガ・クバーナ・デ・ベイスボル"のアラクラネス・デル・アルメンダレスでプロ野球選手としてのキャリアを始めた。初年度から無敗の9連勝を記録してキューバリーグを代表する主戦級投手として活躍し、チームもリーグ優勝を果たした。 1908年の夏にアメリカ合衆国へ渡り、ニグロリーグのブルックリン・ロイヤル・ジャイアンツに所属して3連勝する。同年秋にメジャーリーグベースボールのシンシナティ・レッズがキューバを訪れたが、メンデスはレッズを相手に3試合に登板して計25回を無失点に抑える投球を見せた。その後もキューバを訪れたメジャーリーグのチームとの親善試合にたびたび登板し、通算では5割近い勝率を残した。 1913年に当時J.L.ウィルキンソンが所有していたオール・ネイションズへ移籍した。 ジョー・ウィリアムズ、ルーブ・フォスターとともに当時のニグロリーグを代表する投手だったが、1914年シーズン後半には右腕の負傷から遊撃手に転向した[1]。 遊撃手としても活躍し、1920年にニグロナショナルリーグのカンザスシティ・モナークスへ移籍するまでの間、いくつかのニグロリーグのチームに所属してプレーしていた。 1923年はモナークスの選手兼任監督として、初年でチームをリーグ優勝に導いた。徐々に投手として復活し、この年には12勝4敗の成績を残した。 1924年にはイースタン・カラードリーグの優勝チーム、ヒルデール・デイジーズとのニグロリーグ・ワールドシリーズに4試合登板し、完封を含む2勝を挙げる活躍。チームもニグロリーグ・ワールドチャンピオンに輝いた。この頃はアメリカのリーグがオフになる冬季はキューバに戻り、キューバリーグでも投手として出場していた。 1925年は投手としては結果を残せずに苦しんだが、監督としてモナークスをニグロ・ナショナルリーグ3連覇に導いた。 1926年にニグロリーグを離れ、キューバに戻った。 1927年1月21日にキューバで生涯最後の勝利を挙げた。キューバリーグ歴代最高の通算勝率.731(76勝28敗)の記録を保持している[2]。 引退してから2年足らずの1928年10月31日にハバナで気管支肺炎のため、死去。41歳没。 2006年にニグロリーグ特別委員会による選考でアメリカ野球殿堂入りを果たした。 プレースタイル5フィート8インチ(約173cm)と決して大柄な投手ではなかったが、長い腕と非常に長い指の持ち主だった。ジョー・ウィリアムズよりも速いと言われたほどの伝説的な速球に加え、落差の大きいカーブを武器にしていた。緩急ある投球で打者のタイミングを外した[4]。 ![]() 詳細情報各国リーグ通算投手成績
脚注
関連項目外部リンク
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