トム・グラビン
トム・グラビン(英語: Tom Glavine、本名:トーマス・マイケル・グラビン、Thomas Michael Glavine, 1966年3月25日 - )は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州コンコード出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 経歴プロ入り前高校時代はアイスホッケーと野球をプレイし、高校ではアイスホッケー部のキャプテンを務めた[1]。 プロ入りとブレーブス時代1984年のNHLドラフト4巡目(全体69位)でロサンゼルス・キングスから指名を受けたが[1]、同年6月のMLBドラフト2巡目でアトランタ・ブレーブスからも指名を受け、野球に専念して入団[1]。 1987年8月17日にメジャーデビューを果たす。 1988年は先発ローテーションに定着したが、7勝17敗でリーグ最多の敗戦数を記録した。 1989年に14勝8敗、リーグ3位の4完封を記録し、飛躍の年となった。 1990年は10勝12敗に終わる。 1991年は5月に6勝0敗でピッチャー・オブ・ザ・マンスを受賞し、オールスターゲームでは先発投手を務めた[2]。シーズン通算で20勝11敗、防御率2.55を記録し、最多勝利のタイトルを獲得。チームの9年ぶり、前年地区最下位からの地区優勝に貢献した。ピッツバーグ・パイレーツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは2敗を喫したが、チームは33年ぶりにアトランタ移転後初のリーグ優勝を果たす。ミネソタ・ツインズとのワールドシリーズでは1勝1敗だったが、3勝4敗で敗退した。シーズン終了後初のサイ・ヤング賞を受賞した。 1992年は1954年、1955年のロビン・ロバーツ以来となる2年連続でオールスターゲームの先発投手に選ばれた[2]が、初回一死から7連続安打を打たれるなど2回途中5失点の乱調だった。シーズンでは20勝8敗、防御率2.76、リーグ最多の5完封を記録し、2年連続の地区優勝に貢献。前年に続きピッツバーグ・パイレーツとの対戦となったリーグチャンピオンシップシリーズではまたも2敗を喫したが、チームは2年連続のリーグ制覇。トロント・ブルージェイズとのワールドシリーズでは第1戦に先発し、4安打、無四球、1失点で完投勝利を挙げたが、チームは3勝4敗で敗退。サイ・ヤング賞の投票ではシカゴ・カブスのグレッグ・マダックスに次ぐ2位に入った。 1993年にはマダックスが加入し、ジョン・スモルツ、スティーブ・エイベリーと合わせて四天王と呼ばれた。22勝6敗、防御率3.20を記録、1967年から1972年のファーガソン・ジェンキンス以来となる3年連続20勝以上を記録し、3年連続で最多勝利のタイトルを獲得した[3]。 1994年8月に労使交渉が決裂し、選手側がストライキを決行。当時MLB選手会会長だったグラビンはファンから怒りを買った[2]。ストライキが解除された1995年は登板時にブーイングを浴びた。クリーブランド・インディアンスとのワールドシリーズでは2戦2勝の活躍でシリーズMVPを受賞。38年ぶり、移転後初のワールドチャンピオンとなった[4]。 ![]() 1998年は20勝6敗、キャリアハイの防御率2.47を記録し、4度目の最多勝を獲得。サイ・ヤング賞の投票では1位票がトレバー・ホフマンを下回ったが、獲得ポイントで上回り2度目の受賞を果たした[5]。 1999年はリーグ最多の259被安打を記録するなど苦しんだ[2]。6月4日時点で3勝7敗、防御率5.00だったが、シーズン終盤に調子を取り戻し[2]、最終的に14勝11敗、防御率4.12を記録した。 2000年のスプリングトレーニングでマダックスからカット・ファストボールを教わった[2]。7月31日にMLB史上96人目となる通算200勝を達成した[6]。最終的に21勝9敗、防御率3.40で、5度目のシーズン20勝と最多勝を記録した。 2002年6月26日にはナショナルリーグで5人目となる同一チームで2000奪三振を達成した[7]。 2002年は6月まで防御率1点台を維持するなど好調で、最終的に18勝11敗、防御率2.96を記録。それまで16シーズンをブレーブス一筋で過ごし、生え抜きの人気選手だったが、同年の新労使交渉の際に選手代表として矢面に立って来たグラビンに対し「強欲な選手の代表」と反感を持つ人もいた[8]。シーズン終了後フリーエージェントとなり4年契約を希望したが、球団はシーズン後半の不調を理由に拒否[8]。 メッツ時代![]() (2005年5月8日) 2002年12月5日にニューヨーク・メッツと3年総額3500万ドル、4年目のオプションを含めると4250万ドルで契約した。 2003年は9勝14敗、防御率4.52に終わり、1989年から続いていた2桁勝利が14年で途切れ、チームも地区最下位に終わる。 2004年は、前半戦は7勝7敗、防御率2.66だった。8月10日には交通事故に巻き込まれてしまった[9]。後半戦はコントロールが悪化し4勝7敗、防御率5.06の成績に終わった。シーズントータルでは11勝14敗、防御率3.60と、負け越しはしたが前年より防御率は改善した。 2005年は先発陣に故障者が続出する中、ペドロ・マルティネスと共に先発ローテーションを守り、13勝13敗でチームをポストシーズン争いに踏み止まらせた。 2006年は8月中旬に血行障害のため精密検査を受けたが、軽症で投薬治療が可能なため約2週間ほどで戦線復帰[10]。同年はリーグ2位の15勝を記録。シーズン終了後球団がオプションを行使せず、違約金を払いFAとなったためブレーブス復帰が噂されたが、1年750万ドルで残留[11]。ブレーブスが契約条項にノートレード条項を加えなかったためと言われている[11]。 2007年8月5日のカブス戦で史上23人目の300勝を達成。チームは9月12日時点で地区2位のフィラデルフィア・フィリーズに7ゲーム差を付けていたが、そこから失速。ついにフィリーズに同率で並ばれて迎えたシーズン最終戦のフロリダ・マーリンズ戦で先発したが、一死を取っただけで7失点で降板し敗戦投手となり、チームはプレーオフ進出を逃した。試合後のインタビューの冷静な自己分析は大ブーイングと共に称賛の声が上がった[12]。シーズン終了後、1300万ドルのオプションを破棄してFAとなった。 ブレーブス復帰、引退2007年11月19日に1年800万ドルで5年振りに古巣ブレーブスに復帰[13]。 ![]() 2008年は4月18日にふくらはぎの故障で自身22年間のキャリアで初となる故障者リスト入り[14]。2勝4敗、防御率5.54に終わる。オフに一旦フリーエージェントとなった。 2009年2月19日に1年100万ドルでブレーブスと再契約を結んだ。6月3日にFAとなった。 引退2010年2月11日に正式に現役引退を表明した。 ![]() アトランタ・ブレーブスの永久欠番に2010年指定。 5月には古巣ブレーブスがグラビンの在籍時の背番号『47』を永久欠番に指定することを発表し、同年8月6日に欠番表彰式が行われた。 2014年1月8日に資格取得1年目でブレーブス時代の僚友グレッグ・マダックスと共に野球殿堂入り。得票率91.9%は歴代24位だった。 メジャーデビューしてから引退するまで一度も救援登板がなかった。先発登板数682は歴代12位だが、上位の投手は全員救援での登板があり(ロジャー・クレメンスでも2試合、マダックスでも4試合の救援登板がある)、「一度も救援登板したことのない投手」としては史上最多である。 選手としての特徴
投球スタイル全盛期の速球(フォーシーム、ツーシーム)のスピードは最速93mph(約150km/h)、常時140-145km/h程度だったが、制球力が非常に良く「世界最高の技巧派左腕投手」と評された程で、しばしばブレーブス時代のチームメイトだったマダックスと並び称される。変化球はスライダー、カーブ、サークルチェンジなど、特にサークルチェンジの評価が高い。ゴールドグラブ賞の受賞経験は無いが、守備、牽制の評価は高かった。最多勝5回はウォーレン・スパーン(8回)、グローバー・アレクサンダー(6回)、ボブ・フェラー(6回)、ウォルター・ジョンソン(6回)に次ぐ5位タイ。 クレメンス、マダックス、ランディ・ジョンソンといった同時代の他の300勝投手と比較すると、WHIPや防御率といった投球内容を示す数字では、それほど傑出した数字を残してきたわけではない。しかし、クオリティ・スタート(6回3自責点以内)の数は682登板中436試合、63.9%と高い数字を残しており、勝利に繋げるピッチングができる投手であったことを示している。 打撃打撃の良い投手としても有名で、1991年、1995年、1996年、1998年の4回シルバースラッガー賞を受賞している。犠打も上手く、通算216犠打は投手としては歴代1位。2001年にはリーグ最多犠打(17個)も記録している。 詳細情報年度別投手成績
年度別守備成績
タイトル
表彰
記録背番号
脚注
関連項目外部リンク
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