マクシミヌス・ダイア
![]() ガイウス・ウァレリウス・ガレリウス・マクシミヌス(ラテン語: Gaius Valerius Galerius Maximinus、260年頃 - 311年5月5日)は、305年から311年まで在位したローマ皇帝である。ディオクレティアヌス帝による四帝政治の一角を占め、東方担当の副帝、後に正帝としてローマ帝国の統治に貢献した。特にキリスト教徒に対する迫害の首謀者として知られるが、死の直前に寛容令を発布している。 生涯ガレリウスは、ダキアの首都セルディカ(現在のブルガリアのソフィア近郊)で生まれた。彼の父親はトラキア出身の牧夫であり、母親はロムラという名前であった。自身も牧夫として過ごし、アルメンタリウス(家畜の群れの意)というあだ名を名乗っていたとされる。やがて軍人となり、アウレリアヌス帝やプロブス帝といった皇帝の下で功績を挙げた。 四帝政治における役割293年、ディオクレティアヌス帝による四帝政治(テトラルキア)が開始されると、ガレリウスは東方担当の副帝に任命された。正帝ディオクレティアヌス、西方正帝マクシミアヌス、西方副帝コンスタンティウス・クロルスと共に、帝国の安定に尽力した。特に、298年のペルシア遠征では大勝を収め、その声望を高めた。 305年、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスが退位すると、ガレリウスは東方の正帝に昇格した。しかし、彼の主導する新たな体制は混乱を深めることとなる。306年に西方正帝コンスタンティウスが死去すると、彼の息子コンスタンティヌス(後のコンスタンティヌス1世)が軍に推戴されて西方正帝を宣言し、帝国の分裂が始まった。ガレリウスは、友人のリキニウスを正帝の位に昇格させるなどして事態の収拾を図ったが、帝国は内乱状態へと陥っていった。 キリスト教徒迫害ガレリウスは熱心な異教徒であり、303年にディオクレティアヌス帝によって開始されたキリスト教徒に対する大迫害の真の首謀者であるとされている。彼の管轄する領域では、特に過酷な迫害が行われた。キリスト教徒の集会所の破壊や財産の没収、信仰の放棄を拒んだ者への処刑などが実施された。ガレリウスはキリスト教徒を反政府的な存在と見なし、その信仰を徹底的に弾圧しようとしたのである。 しかし、311年4月、重い病に侵されたガレリウスは、キリスト教徒に対する迫害を解除する寛容令を発布した。これは、自身の病が迫害に対する神の復讐であると恐れたためとも言われている。この寛容令によって、公式なキリスト教徒迫害は終焉を迎えることとなる。 死と評価ガレリウスは311年5月5日に死去した。死因は、エウセビオス著『教会史』によれば、「ぞっとするような病」であり、おそらく大腸癌のようなもので、体から蛆がわくほどの惨状であったと記されている。 ガレリウスは、ディオクレティアヌス帝の四帝政治を支えた有能な軍人であり、帝国の一角を担った。しかし、その強硬なキリスト教徒迫害は、彼の歴史的評価において大きな影を落としている。一方で、死の直前に寛容令を発布したことは、キリスト教の発展において重要な転換点となった。 参考書籍
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