マクタン島の戦い
![]() マクタン島の戦い(マクタンとうのたたかい、セブアノ語: Gubat sa Mactan; フィリピン語: Labanan sa Mactan; スペイン語: Batalla de Mactán)は、1521年4月27日、フィリピンのマクタン島で発生した戦闘。地元の領主ラプ=ラプが、世界一周航海中のスペイン艦隊と戦い、その司令官のフェルディナンド・マゼランを討ち取った。 背景1521年3月16日 (ユリウス暦)、マゼランはモルッカ諸島へ至る航路を探している最中にサマール島を発見した。これが、ヨーロッパ人がフィリピン諸島に到来した最初の記録である。翌日、このスペイン艦隊はホモンホン島に錨を下した[1]。 ここでマゼランは、コランブとシアグというリマサワ島のラージャと親しくなり、彼らの案内でセブに向かった[1]。フマボンという名のセブのラージャは、妃とともにマゼラン一行からカトリックの洗礼を受け、それぞれカルロスとフアナという洗礼名を受けた。これは、スペイン王カルロス1世とその母フアナにあやかったものだった。またこれを記念して、マゼランはフアナにサント・ニーニョの名で知られる幼子イエス像を贈った。ここにポルトガル人とセブ王国の間で同盟が結ばれ、海岸においてフィリピンで最初のミサが執り行われた[1]。 フマボン王の威光により、マゼラン一行は周辺の諸島の首長たちから食料を補給し、彼らに洗礼を施すことができた。 ほとんどの首長はフマボン王の命令に従ったが、マクタン島の二人の領主のうちの一方であるラプ=ラプがただ一人命令を拒絶した。マゼランの艦隊の記録を残した[2] アントニオ・ピガフェッタによれば[3]、
戦闘アントニオ・ピガフェッタによれば、マゼランは戦闘の前夜にラプ=ラプを説得しようと試みた。
4月28日の朝、剣、戦斧、盾、クロスボウ、マスケット銃で武装した49人のスペイン人武装兵がマクタン島に向かった。またキリスト教に改宗した現地民もマゼランたちに助力した[1]。ピガフェッタによれば、海岸の岩礁やサンゴ礁のせいでスペイン兵はマクタン島に上陸できなかった。結局母船は沖合で投錨せざるを得なくなり、マゼランらは大砲の援護を得られぬまま1500人の敵兵が待ち受ける島に向かうことになった。
マスケット銃で敵を狙うにも距離が離れすぎていて、弾が敵のところまで届かなかった。[要出典] マゼランらはブライラの家々に放火して敵を恐れさせようとした。彼らは現地民が放ってきた矢の雨に驚かされたものの、重装備のおかげでこの時はさしたる被害を受けずに済んだ。
現地民が突撃してくると、マゼランは部下たちにクロスボウやマスケット銃の発砲を命じた。しかしすぐに弾薬が切れてしまったので、スペイン兵たちも剣や斧をとって白兵戦を始めた。しかし多勢に無勢で、10人のスペイン人が戦死し、残りは撤退を始めた。 マクタンの戦士たちは、敵の指揮官たるマゼランに殺到した。混戦の中でマゼランは腕に槍を受け、脚をカンピラン(長刀)で傷つけられた。彼を助けようとしたスペイン人たちも、槍や刀の餌食となった。ラプ=ラプの軍勢は終始スペイン軍を圧倒し続け、ついにマゼランを殺害した。ピガフェッタらごくわずかな兵たちが、船に逃げ帰ることができた。
ピガフェッタによれば、何人ものスペイン人が殺され、ついてきた多くの改宗フィリピン人がラプ=ラプの戦士に殺害された。 マゼランの同盟者であるフマボンやズラの軍勢は、マゼラン自身からの要請により戦闘に参加せず、ただ遠方から傍観していただけであった。 その後マゼランの遺体が特定されたのち、フマボンはラプ=ラプに対し、彼が望む物を贈るのと引き換えにマゼランらの遺体を引き渡すよう命じたが、ラプ=ラプはこれも拒否した。[要出典] 生き残ったスペイン人たちはセブ島へ逃げ帰ったが、その中心人物の多くはフマボンに宴席に招かれて毒殺された。フマボンの裏切りを受けて、マゼランの跡を継いだフアン・セバスティアン・エルカーノは急いでフィリピン諸島を脱出した。その後エルカーノらは1522年9月にスペインに帰国し、史上初の世界一周航海を成し遂げた。 文化的影響![]() 現在のフィリピンでは、ラプ=ラプは海外からの侵略を打ち破った「最初の国家的英雄」とされている。ただし、フィリピン諸島というような名前や、それに類する枠組みは当時存在しなかった。またマゼランらはセブのフマボン王らのために戦っていたことから、マクタン島の戦いを「外国支配に対する抵抗」として位置づけるのも不正確な部分がある。[要出典] フマボン王とラプ=ラプの闘争は、それまでにもフィリピン諸島で繰り広げられてきたような抗争の一つにすぎず、マゼランの存在は単にその一陣営にヨーロッパ人が関与し、敗北したという程度の意義しかもたない。[要出典] ラプ=ラプは今日に至るまで様々な形で顕彰されている。マクタン島やセブ州庁には彼の像が立っており、また彼の名を冠したラプ=ラプ市やアカハタの仲間の魚がある。パンパンガの俳優(後に政治家)リト・ラピッド主演の映画『ラプ=ラプ』が製作されたり、コミックシンガーのヨヨイ・ビリヤミーがマクタン島の戦いをユーモラスに脚色した「マゼラン」というフォークソングを作曲したりしている[6]。 マクタン島のマクタン・シュラインでは、マクタン島の戦いの記念日に戦闘を再現するイベントが開かれる。また同地のラプ=ラプ像の隣にはスペイン植民地政府が建てたマゼラン記念碑がある。 なお、マゼランもフィリピンにカトリックを伝道し、セブ島にサント・ニーニョをもたらした人物として一般に顕彰されている。セブ市やマクタン島には、マゼラン・シュラインやマゼランクロスが建てられている。マニラのマガリャネス駅をはじめ、フィリピンにはマゼラン(実際にはそのスペイン語名のマガリャネス)の名を冠した施設が多く存在し、またこの名はフィリピン人の姓としてもよくみられる。[要出典] スールー諸島では、ラプ=ラプはサマ・バジャウ人のムスリムだったと信じられている[7]。 2017年4月27日、フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領は、ラプ=ラプを外国支配への最初の抵抗者として称え、この4月27日を「ラプ=ラプの日」とした[8][9]。 伝説地元の伝説によれば、ラプ=ラプは不死のまま石になり、マクタンの海を守護しているのだという。マクタン島の漁師は、人間の形をした石に向かって硬貨を投げ、ラプ=ラプの領土の中で魚をとる許可を求める儀式を行う[10]。 ラプ=ラプ市の市庁舎の前にあるラプ=ラプ像は、クロスボウを敵に向けて構える姿をしている。市長が三人も立て続けに心臓発作で急死した際、市のオカルト主義者たちが像の武器をクロスボウから剣に代えるよう求めている[10]。
脚注
外部リンク |
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