マザー・グース
![]() マザー・グース[注 1]/マザーグース[注 2] (英:Mother Goose [14][15]) とは、イギリスで古くから口誦によって伝承されてきた童謡や歌謡の総称で通称[16][7][8][9][10]。英米で広く親しまれている[9]。元来は「マザーグースの歌(英:Mother Goose's rhymes)」といった[16]。 著名な童謡は特に17世紀の大英帝国の植民地化政策によって世界中に広まった[17]。現在ではイギリス発祥のものばかりでなく、アメリカ発祥のものも加わり、600から1000以上の種類があるといわれている。英米では庶民から貴族まで階級の隔てなく親しまれており、聖書やシェイクスピアと並んで英米人の教養の基礎となっているともいわれている[18]。現代の大衆文化においてもマザーグースからの引用や言及は頻繁になされている。 なお、「童謡」全般を指す英語としては、「子供部屋の歌」を意味する「ナーサリーライム (nursery rhyme)」[ 語構成:nursery(〈家庭の〉子供部屋)+ rhyme(脚韻)]を用いるのが通例ではある[19]。「ナーサリーライム」が新作も含む包括的語義であるのに対し、「マザーグースの歌」、略して「マザーグース」は、伝承化した童謡のみに用いられる点に違いがあると考えられる[20]。後述するように「マザーグース」が童謡の総称として用いられるようになったのは18世紀後半からであるが、それに対して「ナーサリーライム」が童謡の総称に用いられるようになったのは1824年のスコットランドのある雑誌においてであり、「ナーサリーライム」のほうが新しい呼称である[20]。 呼称の由来英語の童謡は古くから存在したが、それらに対して "Mother Goose" という語が定着するのは18世紀後半以降である。直訳では「鵞鳥(がちょう)かあさん」とでも表現すべきこの語は、同じ意味のフランス語 "Ma Mère l'Oye(日本語音写例:マ・メール・ロワ)"の意訳語であったと考えられる[21][22]。 ペローとサンバー
1697年、フランスの詩人で作家のシャルル・ペローが8つのおとぎ話をまとめた童話集『昔ばなし(Histoires ou contes du temps passé )』をパリで出版した[15][注 4]。それを1729年に[15]イギリス人作家ロバート・サンバーが英訳し、"Histories, or Tales of Past Times" [24][25]と題して母国に紹介した。その本の口絵(■右に画像あり)は原著の口絵(■右に画像あり)と同じ趣旨で描かれている。暖炉のある部屋で糸車を回しながら幼子と若者に昔話を語って聞かせるお婆さんの様子を表現しているのであるが、原著の口絵にある分厚い木製扉の高い位置に取り付けられている飾り板には「鵞鳥かあさんのお話」を意味する "contes de ma mère l'oye([15]音写例:コントゥ・ドゥ・マ・メール・ロワ、コント・ド・マ・メール・ロワ、英訳:tales of mother goose [14])" というフランス語が記されており、英訳本では、この部分を同じ意味になるよう "mother goose's tales(音写例:マザー・グースィズ・テイルズ)" と言い換え、同書の副題(サブタイトル)にも採用した。のちにこのフレーズは本の表題(メインタイトル)に使われることにもなる。これが、以後 "Mother Goose" として固有名詞化してゆく英語フレーズの初出であった[22]。後述する伝説上の人物としての Mother Goose も全き同根語である。 サンバーの英訳本は18世紀中に何度も増刷されて広く読まれている[21]。アメリカでは世紀末の1794年になってようやく出版された。そして、こうしたことを背景に "Mother Goose" という言葉はまずはイギリスの人々に親しみをもって受け容れられ、伝承童話や童謡と結び付けられるようになっていったと考えられている[26]。 ニューベリー1765年には[15][27]、世界初の児童書専門出版者として名の知られたロンドンのジョン・ニューベリー[28]によって『マザーグースのメロディ(原題:Mother Goose's Melody )』と題する童謡集が出版され[15][21]、以後、同じような童謡集や伝承童謡に対して "Mother Goose" という語を用いる慣行が普及・定着していった[21][27]。 ![]() (英題)"Mother Goose reading written fairy tales" 鵞鳥とお婆さん古来、フランスでは鵞鳥は民話や童話に頻繁に取り上げられる動物であり、また、イギリスでも家禽として重宝される動物であった。おとなしく比較的世話が楽なこの水鳥の面倒は各家庭のお婆さん(祖母やその他の老婆)の受け持ちというのが通例で、また、時間を持て余しているお婆さん(とにかく老婆)はしばしば伝承童話や童謡の担い手でもあることから、「鵞鳥」「童話・童謡」「お婆さん」という3つの要素が結び付いたものと考えられる[21][29]。 つまり、言葉としては "mother(母さん)" を残したまま、"goose(鵞鳥)" が "grandma(婆さん)" を引き寄せたことで、その実、「母さん」のイメージは「婆さん」に置き換えられたということになる。 右に示した画像は、19世紀のフランス人画家ギュスターヴ・ドレがシャルル・ペローの童話集『昔ばなし』に自筆の41枚のエッチングを添えた昔ばなし "Les Contes de Perrault " 1866年エディションにおける、口絵の一つである。原語(フランス語)の呼称からは、孫たちに囲まれたお婆さんがペローの童話を読み聞かせている場面をイメージしていることが分かる。しかし、英語では「書かれたおとぎ話を読み聞かせるマザーグース」と名付けられている一図である。ここでは、いつも読み聞かせてくれるのは(わたしたちの)優しいお婆さんであり、わたしたちの優しいお婆さんはマザーグースなのである。
マザー・グースなる人物辞事典ではMother Goose(マザー・グース)は、上述のような童謡や童謡集の伝説上の作者として紹介されることもある。英和辞典でも童謡の総称としてよりもこちらの説明を載せている例がある。例えば『英辞郎』の場合、Mother Goose を「Mother Goose's Talesを書いたとされる想像上の人物」としており、語源については「フランス語のcontes de ma mere l'oye(=tales of mother goose)の翻訳から」と説明している[14]。そして、件の童謡の総称としての Mother Goose については、その次の説明で "Mother Goose rhyme(音写例:マザー・グース・ライム)" と呼び分けている[14]。加えて、人名としての Goose, Mother を参照するよう促しており[14]、つまりこれが意味するところは、Goose がファミリーネーム(家名)で Mother Goose は「グ-ス家の母」といったような二つ名(通称)ということである。 また、後述する鵞鳥に乗る魔女めいた人物を第1義に挙げる辞事典も珍しくない。その筆頭に挙げてもよい例は『ブリタニカ百科事典』であり、第1義に「架空の老女」を挙げ[30]、続けてその特徴を説明してゆくが、内容は鵞鳥に乗って空を飛ぶ魔女のそれである[30]。ペローに始まり、サンバー、ニューベリーと繋がる歴史的経緯については、第2義的位置付けで説明される[30]。 鵞鳥に乗る魔女
伝説上の人物としてのマザー・グースは、鵞鳥(がちょう、domestic goose)もしくは家鴨(あひる)[31]の背に乗ってどこへでも自由に飛んでゆく老婆[31]あるいは魔女として描かれている。このような如何にも老婆で魔女めいたマザー・グースは「オールド・マザー・グース (Old Mother Goose)」と呼ばれることもある。 オールド・マザー・グースというキャラクターは、1806年、ロンドンにあるドゥルリー・レインの王立劇場「ドゥルリーレイン・シアター・ロイヤル」で初演されたトマス・ディブディン脚本によるパントマイム『ハーレクィンとマザー・グース、あるいは黄金のたまご(原題:Harlequin and Mother Goose, or The Golden Egg )』で初めて描写され、この劇が成功したことによって定着したものである[32]。右列に示した画像は、"Harlequin and Mother Goose, or The Golden Egg" のチャップブックとして1860年代に刊行された "Old Mother Goose and the Golden Egg" で、タイトルに冠されているのと同様、表紙にはオールド・マザー・グースの典型的イメージが大きく描かれている。
ダン・レノは、ヴィクトリア朝時代後期における大英帝国の音楽ホールを代表するコメディアンでミュージカルシアターの俳優であるが、オールド・マザー・グースとはまた違った人物としてのマザー・グースを多く演じたことでもよく知られている。 「ヨーロッパの神話伝承やフォークロアに詳しい中世フランス文学の専門家」フィリップ・ヴァルテールは、「「雁おばさん」(英語名マザー・グース)や「ペドーク女王」(雁足の女王)に代表される…「鳥女」…は、ケルトの神話伝承の要である大女神を淵源としている」と論じている(渡邉浩司・渡邉裕美子)[33]。 ボストンのマザー・グース![]() 一時期、アメリカでは「マザー・グースは実在するアメリカ人である」という説が広まった[34]。その説によれば、マサチューセッツ州ボストンのチャールズタウンで1665年に生まれた[35][34][36]エリザベス・フォスター (Elizabeth Foster) という女性がいて、1682年に17歳で[注 5]アイザック・グース(Isaac Goose。家名の異説1:バーグース;Vergoose [30]、異説2:バーティグース;Vertigoose [30])という男性の後添えとして[34]結婚し[36][35]、それ以降はエリザベス・グースを名乗ったとも[30][35][34]、夫の家名を加えてエリザベス・フォスター・グースを名乗ったとも[36]伝えられている。夫婦は6人の子供を儲け[34]、4人を無事に育て上げたという[37]。18世紀初頭になると、エリザベスは孫達に童謡を語って聞かせるお婆さんになっていた[19][34]。彼女は夫に先立たれたのち、1719年に英語の童謡集『子供たちのためのマザー・グースのメロディ』という本を出版し、ここから「マザー・グース」が伝承童謡の総称として広まったというのである[36]。1758年死去(93歳没)[35][36]。この説は後述する北原白秋も自著『まざあ・ぐうす』の端書(はしがき)で事実として触れている[38][39]。 1690年に42歳で亡くなったという生年不明でボストン住まいのメアリー・グース (Mary Goose) なる別の女性を挙げる異伝もある[40][36]が、メアリーの情報にはおかしな所があり、左に画像で示した墓碑銘にあるとおりの1690年に亡くなったのなら[40]、1719年に本を出すことは叶わない。したがって、有力視されてきたのはエリザベスのほうで、メアリーに言及しない資料が多い。 しかしながら、そもそもが全て作り話であった。その事実は、エリザベスの曾孫に当たるジョン・フリート・エリオット (John Fleet Eliot) という人物によって明らかにされた。上述のようなタイトルの書物は存在せず、1860年にボストンの新聞に匿名で投書されたことから広まったということであった[41][42][38]。 出版史ニューベリーの本![]() 前述のように "Mother Goose" という言葉が童謡集の題名として用いられたのは、ジョン・ニューベリーが1780年に刊行した『マザーグースのメロディ』が最初である。同書は52篇の童謡を収めており、このうち23篇は(確認できる限りでは)この本が文献初出となっている。ただし、この52篇の中にはニューベリーと親しかった作家オリヴァー・ゴールドスミスの創作が相当数混じっているのではないかという説もある[30][43]。なお、現存が確認できている最古の同書は1791年刊行のものである[30]。 クーパー一方、現存最古のマザーグース集はと言えば、ロンドンで1744年5月に刊行された[44]ポケット本 (7.6 x 4.4 cm) [45]、『トミー・サムの可愛い唄の本 (Tommy Thumb's Pretty Song Book)』がそれである[46](■画像あり)。この本は Vol.II(第2巻)と記されており、現物は確認されていないものの同1744年3月に出版されたらしい『トミー・サムの唄の本 (Tommy Thumb's Song Boo)』の続篇と考えられている[46][16]。 『トミー・サムの可愛い唄の本』には39篇の童謡が収められており[45]、そのなかには「めえめえ黒ひつじ[45]」「ぼくたち、わたしたち[45]」「てんとう虫、てんとう虫[45]」「6ペンスの唄[44]」「ロンドン橋落ちた[44]」など、今日でもよく知られている童謡が確認できる[45][44]。 編著者名は巻末に "Nurse Lovechild" と記載されているのみであるが[45]、巻頭ページに出版者としてメアリー・クーパー (? - 1761) の名があり、編著者も恐らくは彼女であろうと考えられている[45][注 6]。 ハリウェル19世紀半ばには、文献学者ジェームズ・ハリウェルの『イングランドの童謡 (Nursery Rhymes of England )』(1842年刊)により、数多くのマザーグースの童謡が渉猟された[47]。それは初版で299、最終的には600あまりに上った[47]。ハリウェルの集成はより学問的な方法に基づいており、個人の創作らしきものを注意深く排除し、集めた童謡を「歴史的」「文字遊び」「物語」など18の項目(初版では14)に分類したうえで解説と注釈を施している[48]。この書物は同著者の『イングランドの俗謡と童話 (Rhymes & Nursery Tales of England )』(1849年)とともに、以後100年あまりの間イギリスの伝承童謡の唯一の典拠となっていた[49]。 オーピー夫妻20世紀半ばになると、オーピー夫妻による集成『オックスフォード版 伝承童謡辞典 (Oxford Dictionary of Nursery Rhymes)』(1951年刊)、『オックスフォード版 伝承童謡集 (Oxford Nursery Rhyme Book)』(1955年刊)、『学童の伝承とことば (Lore and Language of Schoolchildren)』(1959年刊)が相次いで著され、これらが以降の時代におけるマザーグース集成の決定版と見なされるようになった[50]。 レパートリー![]() →「§ マザーグースの童謡一覧」も参照
前述のように19世紀のマザーグース集はすでに600を超える童謡を収録していたが、現代のマザーグース集の収録作を合わせ重複分を除くとその数は1000を超える[51]。その種類も、「ハンプティ・ダンプティ」のようななぞなぞ唄 (riddle、cf. wikt)、「ハッシャバイ・ベイビー」のような子守唄 (lullaby, cf. wikt)、「ロンドン橋落ちた」のように実際の遊びに伴って唄われる遊戯唄 (game song)、「ピーター・パイパー」のような早口言葉 (tongue-twister, cf. wikt)、「ジャックとジル」のようなバラッド(物語歌、ballad、cf. wikt)、「これはジャックが建てた家」のように一節ごとに行が増える積み上げ唄 (cumulative song)、「月曜日に生まれた子供は」のような覚え歌(暗記歌、mnemonic rhyme)、そのほか、呪文・まじない (magic song) 、物売り口上[16]、悪口歌[16]、歳事歌[16]、ナンセンス歌[16]、それから、残酷な歌[16]など、分類が困難なほど多様性に富んでいる[16][52][53]。全体的な特徴としては、残酷さのあるものやナンセンスなものが多いということが挙げられる[54]。また、マザーグースは「伝承童謡」と訳されているものの、実際には特定のメロディを持たないものも多く[55]、メロディにのせて唄うためばかりでなく「読むための唄」「読んで聞かせる唄」の側面も強く持っている[56]。 ![]() ナーサリーライムという名のとおり、脚韻(rhyme;ライム、wikt)を踏み、人気のマザーグースの「ハバードおばさん」のように、日本語に直訳すればまったく面白みがないナンセンス・ライムの魅力とその絶大な人気は、その世界を言葉で出力するのではなく、歌の脚韻を合わせることで奇妙な世界が次々と展開する面白さに起因する。また、脚韻だけではなく「ピーター・パイパー」のように頭韻 (alliteration) を使った歌もある。 マザーグースに数えられる童謡の多くはイギリス発祥であるが、「メリーさんのひつじ」のようにアメリカ発祥の著名なマザーグースもある[17]。伝承であるために作者が分かっていないものも多いが、「きらきら星」や「10人のインディアン」のように、作者のはっきりしている新作童謡がのちに伝承化してマザーグースに加えられるケースもある[57][58]。人物としてのマザー・グースを主題とした唄である「オールド・マザー・グース (Old Mother Goose)」は、もともとは1815年ごろに出版されたチャップブック向けの韻文物語であったものが、マザー・グースそのものが主題であったためによく親しまれて伝承化した例である[59]。また、作者不明の古い唄には、羊毛に関する12世紀イングランドの諸政策あるいは15世紀の囲い込みを唄っているのではないかといわれる「めえめえ黒ひつじ」、16世紀イングランドにおけるヘンリー8世のイギリス宗教改革(カトリック修道院の解散を含む)とジェントリ(イギリスにおける新興中産階級)の誕生が背景にあるといわれる「ジャック・ホーナーくん」、エリザベス1世の死去に始まりイングランドとスコットランドの同君連合成立まで続いた1603年の対立を反映しているのではないかといわれる「ライオンとユニコーン」など、歴史的な出来事に関連して発生したと推測されているものもある[60][61]。 大衆文化の中で
→「Category:マザー・グースを題材にした作品」も参照
マザーグースはイギリスにおいては身分・階層を問わず広く親しまれており、このことを言い表すのに「上は王室から下は乞食まで」という言葉も使われる。王室関係者がマザーグースに親しんでいることを示す出来事として、ヴィクトリア女王(1819 - 1901、在位:1837 - 1901)が庶民の子供と「子猫ちゃん子猫ちゃん」を巡ってやりとりをしたというエピソードや、チャールズ3世 (1948 - ) が生まれた際、貴族院のメンバーが「月曜日に生まれた子供は」にちなんだ祝いの言葉を述べたというエピソードも伝えられている[62]。庶民に親しまれている代表例としては、イギリス各地でいくらでも見つけることができるマザーグースの童謡の名前にちなんだ店名をもつパブがある[63]。パブ「キャット・アンド・フィドル」とあれば、それは「ヘイ・ディドゥル・ディドゥル」の別名である[63]。 マザー・グースの引用や登場人物、またそれにちなんだ言い回しは、近代から現代にいたる英米の社会において、新聞、雑誌、広告、小説、漫画、映画、ラジオ、テレビ、ポピュラーソングなど様々な分野のなかに広く見ることができる[16]。文学においてはルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』が物語のなかにマザーグースを用いたことでよく知られており、前者に「ハートの女王」、後者に「トゥイードルダムとトゥイードルディー」「ハンプティ・ダンプティ」「ライオンとユニコーン」を登場させ、いずれも個性的に描き出している。ほかにも、『メアリー・ポピンズ』『秘密の花園』『指輪物語』など、児童文学やファンタジーの古典にもマザーグースの引用例は多い[64]。
マザーグース・ミステリーミステリー/ミステリの分野では、「10人のインディアン」をモチーフとして連続殺人が行われるアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』(イギリスにて1939年刊行)、「誰がこまどりを殺したの?」など4つの童謡の詩句に沿って連続殺人が行われるヴァン・ダインの『僧正殺人事件』(アメリカにて1929年刊行)などを初めとして、多数の「マザーグース・ミステリー / マザーグース・ミステリ」(cf. Category:マザー・グースを題材にしたミステリ)がある[65]。 日本における受容小サキ星ガ輝ク既知で最初の日本語訳(および、日本の最初の日本語訳)は、村井元道の訳業で、出版者・三浦源助の下から1881年(明治14年)に出された自習書『ウヰルソン氏第二リイドル直訳』[66]に所収の、「小サキ星ガ輝クヨ輝クヨ」で始まる「第14章 小サキ星ガ輝ク」であり[67][68]、これは "Twinkle, twinkle, little star; Twinkle, twinkle, little star; " で始まる "Twinkle, Twinkle, Little Star "(現在の邦題:きらきら星)の直訳であった[69]。 また、アメリカ人宣教師にして保育者・教育者でもあったアニー・ライオン・ハウ (1852 - 1943) は、幼児教育に関する教科書の無い時代にあってその作成に尽力したが[70]、その活動の一環で撰して訳した『幼稚園唱歌』(1892年〈明治25年〉5月30日刊[71])は、マザーグースから採った「きらきら(現在の邦題:きらきら星)[72]」と「我小猫を愛す[73]」の2篇を所収しており[16]、1987年の時点ではこれが日本における初訳とされていた[16][74]。なお、2篇とも抜粋に抜粋を重ねて再構成した部分訳である[75]。 夢二明治の終わりから大正時代にかけては、画家で詩人の竹久夢二も翻訳あるいは翻案に取り組んでいる。夢二はおそらく添えられているイラストから興味を持ち始めて自分で訳すようになったものと考えられ[76]、1910年(明治43年)11月刊行の画文集『さよなら』に収録した物語のなかに「誰がこまどりを殺したの?」の訳[注 7]と「ロンドンへ(現在の邦題:子猫ちゃん子猫ちゃん)[74]」を入れて以降、さまざまなマザーグースを訳出している。ただし夢二は翻訳であるという断りをいれずに訳して自分の創作詩といっしょに扱ったりしており、翻訳というより翻案に近いようなものもある[69]。一例として1919年(大正8年)の自著である児童書『歌時計』[77][78][79]に所収の「蜘蛛」(96 - 97頁[注 8])は「マフェットちゃん」に対応しているが、男の子ジャック[注 9]が木の上から落ちてきた干葡萄(ほしぶどう)を食べようとしたところ蜘蛛だったという[78]、オリジナルとは異なる展開になっており、これは今でいう二次創作の範疇にある。 ![]() まざあ・ぐうす初期の訳業で最も重要な人物は北原白秋で、大正時代に『まざあ・ぐうす』を出版している[80][注 10]。白秋による訳は、まず児童雑誌『赤い鳥』の1920年(大正9年)1月号(同年1月刊行)に「柱時計」(原題:Hickory Dickory Dock、日本語別名:ヒッコリー・ディッコリー・ドック)と「緑のお家」(読み:みどりのおうち[80]、原題:There Was a Little Green House)が掲載され、続けて同誌にマザーグースの様々な童謡が発表されていった[81]。そして、明くる1921年(大正10年)の末(白秋36歳時)に纏められ、日本初のマザーグース訳詩集『まざあ・ぐうす』としてアルス社から刊行された[76]。挿絵は恩地孝四郎が担当。この訳詩集では132篇を収録しており、『赤い鳥』に掲載されたものより滑らかな口語に直されている[82]。上述の「柱時計」と「緑のお家」はそれぞれ「一時」と「くるみ」に改題したうえで掲載されている[80]。 その後は英文学者で詩人の竹友藻風による『英国童謡集』が1929年(昭和4年)に出ている。これは学習者向けの対訳詩集で、87篇の訳を原詩とともに収めたものであるが、とりたてて反響はなかったものと見られる[83]。 谷川発のブーム『まざあ・ぐうす』からほぼ半世紀が過ぎた1970年(昭和45年)、リチャード・スカーリーの著書を谷川俊太郎が翻訳した絵本『スカーリーおじさんのマザー・グース』[84]が中央公論社(現・中央公論新社)から出版された。谷川の翻訳は洗練された口語による[信頼性要検証]ものであった[85]。同書は50篇のみの訳出であったが、谷川はその後、1975年(昭和50年)から翌1976年(昭和51年)にかけて、177篇の訳を収めた『マザー・グースのうた』全5集[86]を草思社より出版している。絵は堀内誠一が担当した。読みやすい谷川訳による『マザー・グースのうた』の出版には大きな反響があり、これをきっかけに日本におけるマザーグース・ブームが巻き起こった[87]。 ![]() 拡がるファン層ブームは他の分野の読者層をも取り込む形で拡がりを見せる。1972年(昭和47年)から1976年(昭和51年)まで連載された萩尾望都の少女漫画『ポーの一族』は、全編を通して随所にマザーグースの詩の一節を用いたことで知られている(cf. ポーの一族#作品中のマザーグース)。小学館『別冊少女コミック』の1973年(昭和48年)1月号から連載が始まった「メリーベルと銀のばら」で「ハンプティ・ダンプティ」を扱ったのが嚆矢になっている。また、マザーグースを引用した1939年の作品であるアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』がハヤカワ・ミステリ文庫(現・ハヤカワ文庫HM)の創刊第1弾として日本に紹介されたのは、1976年(昭和51年)4月のことであった。これら異なる分野ながらいずれも大いに人気を博した作品に重要な位置付けで取り上げられたことも、谷川俊太郎の訳業に始まるブームを後押ししたと見られている[87][88]。 推理小説でいう「マザーグース・ミステリー」の、マザーグースの童謡さながらに一人また一人と殺されてゆく設定は、手毬唄の歌詞に沿って行われる童謡殺人を描く横溝正史の金田一耕助シリーズ『悪魔の手毬唄』(1957年〈昭和32年〉- 1959年〈昭和34年〉)などにも影響を与えた。
主なマザーグースの童謡一覧
ここでは、マザーグースの童謡のうち主なものを一覧形式で記載する。記載順は原語でのそれに準拠している。また、内容は原語名(英語名)・日本語名・解説・(あれば)音声ファイルの順で記載する。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() なお、「ロンドン初出」が多いのは、著述者および出版者の一大参集地であることに加えて、ハリウェルらロンドンを本拠とする編纂者の功績の大きさゆえの偏りである。ただ、ロンドンという地域性から生まれたものが無いわけではない。
歴史的文献ここでは、マザーグースの歴史に深く関連した文献等について、補足的に記述する。
参考文献
関連文献
脚注注釈
出典
関連項目
外部リンク
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