マリア・フェルディナンダ・ディ・サッソニア
マリア・フェルディナンダ・ディ・サッソニア (イタリア語: Maria Ferdinanda di Sassonia, 1796年4月27日 - 1865年1月3日)は、トスカーナ大公フェルディナンド3世の2度目の妃。 生涯前半生マリア・フェルディナンダは1796年4月27日、のちのザクセン王太子マクシミリアンとパルマ公女カロリーナ・ディ・ボルボーネ=パルマとの間に第二子次女として生まれた。1804年に母が亡くなったのち、父は1825年にマリーア・ルイーザ・カルロッタ・ディ・ボルボーネ=パルマ(エトルリア王ルドヴィーコ1世の娘で、先妻カロリーナの姪)と再婚したが、この結婚で子どもはできなかった。父は王位継承権を放棄して自身の権利を長男に譲り、1838年に死去した。 マリア・フェルディナンダには7人の姉弟がおり、ほとんどが望ましい結婚をした。長姉のアマーリエは生涯未婚だったが著名な作曲家となった。長弟は1836年にザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世として即位した。次弟のクレメンスは24歳で亡くなった。その下の弟妹のうち3人(マリア・アンナ、ヨハン、マリア・ヨーゼファ)は、それぞれトスカーナ大公妃、ザクセン王、スペイン王妃となった。 1817年、マリア・フェルディナンダはトスカーナ大公世子レオポルドと結婚する予定の妹マリア・アンナに付き添ってフィレンツェに行った[1]。2人はとても仲が良く、またマリア・アンナは怖がりで姉の同伴無しではとてもフィレンツェに行く事など出来なかった[1]。妹は正式に結婚したが、姉のマリア・フェルディナンダがレオポルドの父トスカーナ大公フェルディナンド3世の目に留まるという、明らかに予想外だった事が起こった[1]。 トスカーナ大公妃![]() 1821年5月6日、フィレンツェでトスカーナ大公フェルディナンド3世と結婚した[1]。彼女は2人目の妃であり、フェルディナンド3世は27歳年上だった。夫の最初の妃ナポリ及びシチリア王女のルイーザ・マリアは、マリア・フェルディナンダの父方の又従姉妹であり、母の従姉でもあった。フェルディナンド3世は直近にマリア・アンナと結婚した唯一の息子のレオポルドを心もとなく思っていたので再婚を望んだと考えられている。レオポルドは健康状態に問題があると考えられていた。この結婚でマリア・フェルディナンダに子どもは生まれなかった。妹のマリア・アンナはフェルディナンド3世の息子のレオポルドと結婚していた為、マリア・フェルディナンダは妹の義母になった。フェルディナンド3世は1824年にフィレンツェで亡くなり、レオポルドとマリア・アンナ夫妻がトスカーナの大公と大公妃になった。 後半生![]() 1859年、トスカーナ大公家はイタリア統一運動の間に大公位を喪った。大公家はフィレンツェのピッティ宮殿から、オーストリア帝国ウィーンの皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリーザベト夫妻の宮廷へと去った。マリア・フェルディナンダはそれ以降は主にボヘミアのブランディース・ナト・ラベム=スタラー・ボレスラフの居城で暮らしていたが、しばしばドレスデン宮廷に弟のザクセン王ヨハンの客として呼ばれた。きょうだい達の中では特に姉のアマーリエとは親密な関係で結ばれていた。またスペイン王妃マリア・ルイサによって創設されたマリア・ルイサ王妃貴婦人勲章を授与されていた。 マリア・フェルディナンダは未亡人として41年過ごし、1865年1月3日に亡くなった。亡骸はウィーンの帝室納骨堂に埋葬された。 系譜
脚注参考文献
関連項目
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