メルセデス・ソーサ
メルセデス・ソーサ(Haydée Mercedes Sosa, 1935年7月9日 - 2009年10月4日)はアルゼンチン・フォルクローレの女性歌手である。 生涯1935年7月9日、アルゼンチン北西部のトゥクマンで貧しい労働者の家庭に生まれる。15歳の時にラジオ局のコンテスト[1]に優勝して二ヶ月の出演契約を結ぶが、ディレクターがフォルクローレをバカにしたことに怒って喧嘩して帰ってきてしまった、というエピソードが知られている。その後、首都ブエノスアイレスに出て様々な職を転々としたのち、1960年代半ば、30歳頃に歌手として世に出る[2]。 1973年、作詞のフェリックス・ルナ、作曲のアリエル・ラミレスと組んで、アルゼンチン史上の8人の女性(7人のアルゼンチン人と1人のボリビア人)を歌ったアルバム「アルヘンティーナの女(Mujeres argentinas)」を発表、フォルクローレ史上に不朽の名を残す。しかしアルゼンチンが軍事独裁政権下にあった1970年代後半には、フランス、次いでスペインへの亡命を余儀なくされた[3]。 歌による社会変革を目指したヌエバ・カンシオン運動[4]の第一人者と目された時期もある。 1982年、アルゼンチンが民政に復帰するのと前後して彼女も帰国するが、それ以降はアルゼンチンのフォルクローレという枠を越えて、キューバ・ブラジルなど、ラテンアメリカの広い範囲の曲を取り上げるとともに、アルゼンチンの曲でも、ビクトル・エレディア、ペテコ・カラバハル、レオン・ヒエコなど、(1980年代前半当時としては)若手音楽家の作品を数多く歌っている。民族楽器の太鼓を抱えて歌うことはあった[5]が、ギター演奏や作詞・作曲などは知られている限りは行っていない。 もともとどっしりした体格であるが、晩年は見るからに体重の増加が著しく、そのことに起因して健康状態はあまり良くないと伝えられた。1975年[6]と1977年の2度来日公演を行っている。2003年9月、26年ぶりの来日公演(日本以外にもアジア数カ国でも)が予定されていたが、直前になってその健康状態から来日公演が中止されてしまった。 2009年10月4日、多臓器不全のためブエノスアイレスで死去。74歳没[7]。 主な作品
ディスコグラフィーEP
スタジオ・アルバム
ライヴ・アルバム
コンピレーション・アルバム
コラボレーション・アルバム
シングル
サウンドトラック、V.A.など
共演、共作
フィルモグラフィー
脚注
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