ユニエスキ・マヤ
ユニエスキ・マヤ・メンディスーラ(Yunesky Maya Mendizula, 1981年8月28日 - )は、キューバ共和国ピナール・デル・リオ出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。 経歴キューバ時代2003-2004シーズンからキューバ国内リーグ"セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル"のベゲロス・デ・ピナール・デル・リオに所属。 2004-2005シーズンにはリリーフ投手として防御率1.61で最優秀防御率を獲得。 2005年9月に第36回IBAFワールドカップのキューバ代表に選出された。 2005-2006シーズンは先発投手に転向するも成績が伸びず、7勝9敗・防御率3.79に終わった。 2006年の第1回WBCのキューバ代表に選出された[1]。この大会では、1次リーグのパナマ戦では勝利投手となっている。7月には2006年中央アメリカ・カリブ海競技大会の野球キューバ代表に選出され、11月には第16回IBAFインターコンチネンタルカップのキューバ代表に選出されている。 2007年7月に2007年パンアメリカン競技大会の野球キューバ代表に選出された。11月には第37回IBAFワールドカップのキューバ代表に選出された。 2008-2009シーズンは再び先発に戻って防御率2位の2.22を記録した他、13勝4敗で最多勝投手、アロルディス・チャップマンの130奪三振に次ぐ2位の119奪三振となる好成績を残した。 2009年3月に開催された第2回WBCのキューバ代表に選出され[2]2大会連続2度目の選出となった。この大会では、2度目の日本戦となる3月19日に小笠原道大に先制打を記録された。 ナショナルズ時代2009年夏にメキシコに亡命しようとするが失敗して代表チームから追放後、9月にドミニカ共和国へと亡命。亡命後、メジャー球団との入団交渉を行った。 2010年7月31日にワシントン・ナショナルズと総額800万ドルの4年契約を交わした。 同年9月7日にメジャーへ昇格し、同日のニューヨーク・メッツ戦でメジャーデビュー。初登板は先発し5回5安打4失点で負け投手となった。この年は5試合に登板し、0勝3敗、防御率5.88だった。 2011年3月25日にAAA級シラキュース・チーフスへ異動し、開幕をAAA級で迎えた。5月29日にトム・ゴーゼラニーが故障者リスト入りした為、メジャーへ再昇格することになった[3]。昇格後は4試合に先発したが、0勝1敗、防御率6.86と結果を残せず、6月15日にAAA級へ降格。7月30日に再昇格し、同日のニューヨーク・メッツ戦で5.1回を5安打無失点に抑え、メジャー初勝利を挙げた。翌日の7月31日にAAA級へ降格。9月6日に再昇格したが、先発としての登板はなく、リリーフとして5試合に登板した。この年は10試合に登板し、1勝1敗、防御率5.23だった。 2012年3月15日にAAA級シラキュースへ異動。この年はAAA級で28試合に登板し、11勝10敗、防御率3.88だった。 2013年3月18日にAAA級シラキュースへ異動し、開幕をAAA級で迎えた。5月21日に再昇格。同日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦の同点10回裏から登板したが、パブロ・サンドバルから2点サヨナラ本塁打を打たれ、負け投手となり、5月25日にDFAとなった。5月27日にAAA級シラキュースへ降格した。結局この年は1試合の登板にとどまり、11月18日に放出された。 ブレーブス傘下時代2014年1月13日にアトランタ・ブレーブスとマイナー契約を結んだ。 斗山時代7月25日に、不振により退団したクリス・ボルスタッドの代役として、韓国プロ野球・斗山ベアーズと契約した。 同年は11試合で2勝をあげ、2015年シーズンも再契約した。 2015年4月9日のネクセン・ヒーローズ戦でノーヒットノーランを達成した[4]。だがそれ以降振るわず、6月13日に退団となった。 斗山退団後2016年2月2日にロサンゼルス・エンゼルスとマイナー契約。 2017年は所属球団なく、オフにドミニカのウィンターリーグでプレー。 2018年7月10日にメキシカンリーグのアグアスカリエンテス・レイルロードメンと契約したが、8月1日に解雇となる。 2019年はメキシカンリーグのサルティーヨ・サラペメーカーズと契約したが、2試合の登板で13失点を喫し、4月13日に解雇となる。 2020年オフにはドミニカのウィンターリーグでプレー。 選手としての特徴投球は145キロ前後の速球と縦のカーブ、チェンジアップで組み立てる投球。コントロールはかなり安定しているが、その半面、球をストライクゾーンに揃えすぎるため、時に連打を浴びることもある。 詳細情報年度別投手成績
背番号
代表歴
脚注
関連項目外部リンク
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