ラルフ・ネヴィル (初代ウェストモーランド伯)![]() 初代ウェストモーランド伯ラルフ・ドゥ・ネヴィル(Ralph de Neville, 1st Earl of Westmorland, KG, 1364年頃 - 1425年10月21日)は、14世紀後期から15世紀前期のイングランドの貴族である。父はネヴィル・ドゥ・レビィ男爵ジョン・ドゥ・ネヴィル、母はパーシー男爵ヘンリー・ドゥ・パーシーの娘モード・パーシー。ホットスパーは父方では従弟、母方では従甥に当たる。ヨーク朝の2代のイングランド王エドワード4世、リチャード3世は外孫にあたる。 生涯イングランドのダラムのレビー城で生まれた。1388年、父の後を継いでネヴィル・ドゥ・レビー男爵になり、1397年にリチャード2世の命令で訴追派貴族の裁判に関わり、同年にウェストモーランド伯に叙爵された[1][2]。1402年にはヨーク公エドマンド・オブ・ラングリーの死によって空席のできていたガーター騎士団の一員になった。 1399年にリチャード2世の従弟のヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)がクーデターを起こした時はボリングブルックに寝返った。以降はヘンリー4世に仕え、義理の叔父のノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー・ホットスパー父子の反乱には与せず、1405年のヨーク大司教リチャード・スクループとトマス・モウブレー(婿の1人・ノーフォーク公ジョン・モウブレーの兄)の反乱を鎮圧した[2][3]。1415年7月ではイングランドに残り、ノーサンバーランドでスコットランド軍と戦っている。 1417年にヨーク公リチャードの後見人となり、1424年に娘のセシリー・ネヴィルと婚約させたが翌年に死去。長男のジョン・ネヴィルに先立たれていたため、ウェストモーランド伯位は孫のラルフ・ネヴィルが継承した。また、別の息子リチャード・ネヴィルは遺産相続と姻戚関係からソールズベリー伯となりネヴィル家は繁栄を迎えた[2]。 家族最初の妻マーガレット・スタフォード(第2代スタッフォード伯ヒュー・スタフォードとフィリッパ・ビーチャムの娘)とは1382年に結婚した。1396年11月29日に2番目の妻ジョウン・ボーフォート(ジョン・オブ・ゴーントとキャサリン・スウィンフォードの娘・ヘンリー4世の異母妹)と結婚した。彼女の父方の祖父母はイングランド国王エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーであった。 マーガレット・スタフォードとの間に9人の子供がいた。
ジョウン・ボーフォートとの間には14人の子供がいた。
ネヴィル家はラルフとリチャードの2代で多くの貴族と姻戚関係を結んだが、後の薔薇戦争ではそれぞれが敵味方に分かれ、戦争を繰り返した。子孫の内、エレノア、リチャードとセシリーの子孫がパーシー家、スタンリー家やイングランド王家と結び、現在に至る。 系図
脚注参考文献
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