キャサリン・スウィンフォード
キャサリン・スウィンフォード(Katherine Swynford もしくは Katharine, Catherine, 旧姓はキャサリン・ド・ルート(Katherine de Roet), 1350年11月25日 - 1403年5月10日)は中世イングランドの貴族女性。イングランド王族のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの愛人で後に3番目の妻になる。彼女の子は臣籍降下して名門ボーフォート家を興す。ランカスター朝の始祖ヘンリー4世は継子(ジョン・オブ・ゴーントと最初の妻ブランシュの息子)。 2度の結婚キャサリンはペイン・ド・ルート[1]の娘として生まれた。彼女は16歳の時(1366年頃)にヒュー・スウィンフォード[2]と結婚した。ヒューはケトルソープ(Kettlethorpe)に邸宅をもつ裕福な騎士であり、2人の間に2人以上の子を授かったが、彼女の父と同様に大陸で戦死してしまう。 ヒュー・スウィンフォードに先立たれた後、彼女はランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの邸宅に入る。表向きはジョンの妻ブランシュに呼ばれた「ジョンの2人の娘たちの家庭教師」という名目であった。この公妃は1369年に亡くなり[3]、ジョンの2番目の妻であるコンスタンス・オブ・カスティルも1394年に亡くなると、1396年1月13日にジョンとキャサリンはリンカーン大聖堂で結婚し、ジョンが1399年に亡くなるまでの3年間を夫婦として過ごしている。 1403年5月10日、キャサリンはジョンの死の4年後に亡くなった。彼女と娘のジョウンはリンカーン大聖堂の聖壇に埋葬されたが、その墓所は1644年の清教徒革命の内戦の折に清教徒の略奪を受けた。 家族ヒュー・スウィンフォードとの間に以下の子女をもうけた[4]。
ジョンとキャサリンの間には子供が4人いた。
4人とも結婚前に生まれた子だったため通常なら庶子扱いだが、ジョンは1390年に従兄のリチャード2世によって「嫡出子である」という私的談話を得て、さらに結婚後の1397年1月には議会宣言の形で議会の承認もとった。すでに「ボーフォート」という姓をもらっていた4人の子供達は晴れて「ジョン・オブ・ゴーントの嫡出子」となった[5]。 ![]() ジョウンの孫は後にヨーク朝を開くエドワード4世とその後を継ぐリチャード3世である。そのリチャード3世を倒してテューダー朝を開いたのは、ジョンの曾孫のヘンリー7世である。出生時期さえ定かでないような私生児だったボーフォートの血脈は、こうしてイングランド王室につながっていく事になる。 脚注
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