ルイス・アルフォンソ・デ・ボルボーン
ルイス・アルフォンソ・デ・ボルボン・イ・マルティネス=ボルディウ(スペイン語: Luis Alfonso de Borbón y Martínez-Bordiú, 1974年4月25日 - )は、スペインの経営者、銀行家。フランスの王位請求者。 ボルボン家(スペイン・ブルボン家)の一族で、レジティミスト(フランス語: légitimistes、正統王朝主義者)がブルボン朝のフランス王位継承者と主張している。フランス王位請求者としてはフランス王ルイ20世(フランス語: Louis XX)[1]とアンジュー公ルイ・ド・ブルボン(フランス語: Louis de Bourbon)の称号を使用。 フランス王ルイ14世の孫のスペイン国王フェリペ5世の子孫にあたることが根拠になっているが、フェリペ5世は1713年にユトレヒト条約でフランス王位請求権を放棄していることから、オルレアニスト(オルレアン王朝派)は彼をフランス王とするのは不適格と主張している[2]。 スペイン王アルフォンソ13世の次男セゴビア公ハイメ・デ・ボルボンの嫡流の孫であるが(現スペイン王室はアルフォンソ13世の四男の系譜)、セゴビア公は聴覚障害のためにスペイン王位継承権を放棄したため、ルイス・アルフォンソにスペインの王位継承権はない。スペイン総統フランシスコ・フランコやヴィクトリア女王の子孫でもある[3]。 経歴
1974年、スペイン王アルフォンソ13世の次男セゴビア公ハイメ・デ・ボルボンの長男であるカディス公アルフォンソ・デ・ボルボン・イ・ダンピエレの次男としてマドリードで生まれた。母である第2代フランコ女公爵ドニャ・マリア・デル・カルメン・マルティネス=ボルディウ・イ・フランコは総統フランシスコ・フランコの娘カルメン・フランコの娘であり、したがってルイス・アルフォンソはフランコ総統の曾孫にあたる。 1975年3月20日、アンジュー公およびセゴビア公を称していた祖父ハイメ(“フランス王アンリ6世”)の死去により、父アルフォンソが“フランス王アルフォンス2世”となり、同時にアンジュー公の称号も継承した。ルイス・アルフォンソは1981年9月19日に父からトゥーレーヌ公に叙され、1984年2月7日に兄フランシスコが自動車事故で死去したため、代わってブルボン公の称号を帯びた。 1989年1月30日、父アルフォンソがアメリカ合衆国コロラド州のビーヴァー・クリークでのスキー事故により死去した。これを受けて、ルイス・アルフォンソが正統派の支持するフランス王家の長“ルイ20世”となり、アンジュー公の称号も継承した。ただしカディス公の称号は、スペイン政府が1987年に、世襲の称号ではなくこの称号はスペイン王室のみに属すると主張したため、用いていない。 ルイス・アルフォンソはリセ・フランセ・ド・マドリードに通った後に大学で経済学を学び、BNPパリバマドリードに勤務した。母のいるフランスを定期的に訪れてはいるものの、もっぱらスペインで暮らしている。2003年11月にベネズエラ出身のマリア・マルガリータ・バルガス・イ・サンタエージャとの婚約が発表され、翌2004年11月にドミニカ共和国のラ・ロマーナで結婚式を挙げた。しかし、スペイン国王フアン・カルロス1世やスペイン王族はこの結婚式に出席しなかった。これはフアン・カルロス1世が、自身の父方の従甥にあたるルイス・アルフォンソがボルボン家の傍系(現スペイン王家の系統を嫡流とする場合)にもかかわらず、アンジュー公およびフランス王家の長の称号を名乗っていることを好んでいないのが理由と言われている。ルイス・アルフォンソとマリア・マルガリータの2人は、2005年からベネズエラで暮らしていた。 ルイス・アルフォンソは、2006年の母マリア・デル・カルメンの3度目の結婚式に出席しなかった。これは彼が、母のセレブリティ的な生活観と、自身が尊敬する母の前夫ジャン=マリー・ロッシからの離婚を嫌っていたからだと言われている。 2007年3月5日、娘のエウヘニア(Eugenia)が生まれた。エウヘニアは同年6月にパリ駐在ローマ教皇庁外交使節館で教皇使節のフォルトゥナート・バルデッリから洗礼を受けた。フランスの正統派はエウヘニアを王女ウジェニー・ド・ブルボン(Eugénie de Bourbon)殿下として認めているが、スペインではドニャ・エウヘニア・デ・ボルボン・イ・バルガス閣下と呼ばれる。 2010年5月28日に双子の息子ルイス(Luis)とアルフォンソ(Alfonso)が生まれた。双子は9月5日にサン・ピエトロ大聖堂で、教皇総代理のアンジェロ・コマストリ枢機卿から洗礼を受けた。ルイス・アルフォンソは長男ルイスをブルゴーニュ公に、次男アルフォンソをベリー公に叙した。ルイスはドーファンルイ・ド・ブルボンとして正統派の主張する次代のフランス王位継承者となる。息子たちはスペインにおいてそれぞれドン・ルイス・デ・ボルボン・イ・バルガス閣下、ドン・アルフォンソ・デ・ボルボン・イ・バルガス閣下と呼ばれる。2019年2月1日、第4子であるエンリケが誕生。トゥーレーヌ公に叙された。 同年11月8日、正統派の組織であるブルボン家協会への関与を取りやめ、新たにアンジュー公爵協会を設立した。しかし2015年に入って同協会を解散し、再びブルボン家協会に合流した。 2014年8月25日には、アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイスから名誉市民の称号を贈られた。 2018年3月に祖母である初代フランコ女公爵カルメン・フランコが死去まで名誉議長を務めていたフランシスコ・フランコ財団の名誉議長に就任し、曾祖父のフランコ総統を貶めようとするペドロ・サンチェス政権に反対している[4]。 フランス王位請求者として![]() 1992年8月25日、ルイス・アルフォンソはエーグ=モルト(ルイ9世が建設した町)の名誉町民号を当時の町長だったルネ・ジャノから贈られた[5]。 フェリペ5世がユトレヒト条約でフランス王位継承権を放棄したこと[6]は、レジティミストとオルレアニストの間で長らく論争の種となっている。レジティミストは、フランス王位はサリカ式継承法に従って定められており、いかなる条約もフランスの王位継承に干渉することはできないと主張している。 1994年6月16日、ルイ16世がアメリカ独立戦争を支援したことから、ブルボン家家長としてフランスのシンシナティ協会の正会員となった。 2010年12月、フランス革命後に持ち去られたアンリ4世の頭部をサン=ドニ大聖堂に改葬するためにニコラ・サルコジ大統領に協力を求めて、一旦は了承されたが、政権が変わってフランソワ・オランドが大統領になると、これを却下された。 称号現在ルイス・アルフォンソが有している称号は、以下の通りである。
オルレアン派の支持するフランス王、“フランス人の王アンリ7世”とも呼ばれるパリ伯兼フランス公アンリは2004年に、アンジュー公の称号を甥のシャルル=フィリップに与えた。アンリはまた1987年から1989年に、正統派の支持するフランス王家の長であるルイス・アルフォンソが、オルレアン派の支持するフランス王家の長である自身の主張に反してアンジュー公およびフランス王家の長の称号を名乗っていることとフランス王室の紋章を使用していることは違法であるとして、フランスの裁判所に提訴した。法廷は、現在のフランスは王国でなく共和国であり、このような訴訟はフランス共和国に関係なしとして、訴えを退けた。現在、アンジュー公の称号はルイス・アルフォンソとシャルル=フィリップとの間で競合状態にある。 フランス法務省はルイス・アルフォンソを(スペイン王族として)“殿下”の称で呼んでいる。スペインでは“閣下”と呼ばれる。 現在のスペイン憲法はフアン・カルロス1世の子孫にのみ王位継承権を認めており、ルイス・アルフォンソ一家は該当しない。ただし、もし王位継承権者が絶えた場合には議会が新国王を選定するが、その際にルイス・アルフォンソやその他の特定者を排除する規定があるわけではない。フランコ主義者の中には、ルイス・アルフォンソを真のスペイン国王として推戴する者もいる[7]。 系譜
脚注
参考文献
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