ロニー・ジェイムス・ディオ
ロニー・ジェイムス・ディオ[注釈 1](Ronnie James Dio、本名:ロナルド・ジェームズ・パダヴォナ Ronald James Padavona、1942年7月10日 - 2010年5月16日[1])は、アメリカ合衆国出身のロックミュージシャン、シンガーソングライター。 主にHR/HMバンド「レインボー」や「ブラック・サバス」の元ボーカリストとして知られ、自ら率いた「ディオ」でも活動した。 概要非常に張りのある中音域を特徴とする伸びのある声を持ち、時に演劇的ですらあるドラマチックな発声を行なうことによって、いわゆる様式美系ヘヴィメタルの教祖として大きな存在感を示した。欧米人の中では比較的小柄ではあるが、声量があり最晩年まで非常にパワフルな歌唱を聴かせていた。「絶対音感のボーカリスト」と称され、ステージでも故意のフェイク以外では音程を外さなかった。これは、幼少期からトランペットのトレーニングを受けてきたことが素地になっているという。また、膨大な量のオペラを聴いて育ち、特にマリオ・ランツァから大きな影響を受けている[2]。 60歳を超えても精力的な活動を続けたので、メタル界のゴッドファーザーと呼ばれた。日本では「演歌の様にこぶしを効かせた歌い回し」で圧倒的な存在感を示したことから、「ヘヴィメタル界の北島三郎」と呼ばれ親しまれていた[3]。 来歴![]() ![]() 音楽活動を始めたのは1957年にまで遡る。当時学生だった彼は「ヴェガス・キングス」(Vegas Kings)[5]というバンドを結成して、ボーカリストとベーシストを兼任していた。1958年には「ロニー・アンド・ザ・レッド・キャップス」(Ronnie And The Red Caps)[5]を結成して、シングルを500コピー制作した[6]。1962年にバンドを「ロニー・ディオ・アンド・ザ・プロフェッツ」(Ronnie Dio And The Prophets)[7]と改名し、1963年にデビュー・アルバムを発表[8]。音楽歴ではザ・ビートルズと肩を並べるベテランだが遅咲きだった。 「エルフ」のメンバーとしてディープ・パープルの前座を務め[9][注釈 2]、リッチー・ブラックモアに見出されて1975年に彼が結成した「レインボー」の主要メンバーになり[10]、押しも押されもせぬハード・ロック・シンガーの地位を築いた。 1978年の末にレインボーを脱退し[11]、「ブラック・サバス」での活動を経て、1982年に「ディオ」を結成。1991年にブラック・サバスに復帰するが、翌年に再び脱退。それ以降はディオの活動に専念するが、メンバー・チェンジや音楽性の迷いで商業的には不振が続いた。 1986年には、ディオのメンバーを中心にアフリカの飢餓救済を目的としたチャリティ・プロジェクト「ヒア・アンド・エイド」を結成し、当時活躍していたヘヴィメタル系ミュージシャンを多数迎えてアルバム『スターズ』を制作発表した。 2007年、自分が在籍した時期のブラック・サバスの楽曲のベスト・アルバムが発表されることをきっかけにして、アルバム『悪魔の掟』のレコーディング・メンバーだったヴィニー・アピス、ギーザー・バトラー、トニー・アイオミと結集。1980年に自分が加入してから最初に発表されたアルバムのタイトルに由来する「ヘヴン・アンド・ヘル」の名義でツアーを行なった。 2009年、ヘヴン・アンド・ヘル初のアルバムをリリース。ヴァッケン・オープン・エアやラウドパークを含むツアーを行った。しかし11月27日、公式サイトで早期の胃癌と診断されたことを報告。予定されていたヘヴン・アンド・ヘルとディオのヨーロッパ・ツアーを全てキャンセルして、闘病生活に入った。 2010年5月16日午前7時45分(米中部夏時間)、ヒューストンで死去。享年67歳[12]。 在籍したバンド
ディスコグラフィロニー・ディオ・アンド・ザ・プロフェッツ
エルフ
レインボー
ブラック・サバス
ディオ
ヘヴン・アンド・ヘル
来日公演
→詳細は「レインボー§来日公演」を参照
→詳細は「ブラック・サバス§来日公演」を参照
→詳細は「ディオ§来日公演」を参照
→詳細は「ヘヴン・アンド・ヘル§来日公演」を参照
脚注注釈
出典
引用文献
外部リンク |
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