ロバート・ステュアート (カースルレー子爵)
第2代ロンドンデリー侯爵ロバート・ステュアート(英: Robert Stewart, 2nd Marquess of Londonderry KG GCH PC、1769年6月18日 - 1822年8月12日)は、アイルランド生まれのイギリスの政治家・外交官。襲爵前に称していたカースルレー子爵(Viscount Castlereagh)の儀礼称号で知られる。 略歴初代ロンドンデリー侯爵ロバート・ステュアートと1人目の妻サラ・フランシス(1747年9月27日 – 1770年7月18日、初代ハートフォード侯爵フランシス・シーモア=コンウェイの娘)の息子として、1769年6月18日に生まれた[1]。アーマーのロイヤル・スクールで教育を受けた後、ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに進学した[1]。 アイルランド議会では1790年から1800年までダウン県選挙区選出庶民院議員を、グレートブリテン議会では1794年から1796年までトレゴニー選挙区選出、1796年から1797年までオーフォード選挙区選出庶民院議員を務めた[1]。アイルランド庶民院ではアイルランド王国のグレートブリテン王国への併合を定めた1800年合同法の制定に尽力した[1]。合同法によりグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立すると、1801年から1805年までダウン選挙区選出、1806年1月から10月までバラブリッジ選挙区選出、1806年11月から1812年までプリンプトン・アール選挙区選出、1812年から1821年までダウン選挙区選出の連合王国庶民院議員を務めた[1]。 1797年10月20日にアイルランド枢密院の枢密顧問官、1798年12月19日にグレートブリテン枢密院の枢密顧問官に任命され、1798年から1800年までアイルランド主席政務官を務めた[1]。アディントン内閣期より閣僚職を歴任し、1802年から1806年までインド庁長官、1805年から1806年までと1807年から1809年まで陸軍・植民地大臣、1812年から1822年まで外務大臣を務めた[1]。1814年6月9日にガーター勲章を授与され、同年のウィーン会議と1818年のアーヘン会議にイギリス代表として出席した[1]。 同時代の閣僚ジョージ・カニングとは犬猿の仲で、1809年9月には外務大臣だったカニングが首相ポートランド公爵にカースルレー子爵の陸軍・植民地大臣解任を要求し、2人が9月21日に決闘を行う事件が起こった[1]。 1802年11月11日、王立協会フェローに選出された[1]。1821年、ロイヤル・ゲルフ勲章を授与された[1]。1821年4月6日に父が死去すると、ロンドンデリー侯爵位を継承した[1]。 1822年8月12日、ケント州ノース・クレイ(現ロンドン南東部)で頸動脈を切って自殺した[1]。(精神的な)過労が原因とされる[1]。8月20日、ウェストミンスター寺院に埋葬された[1]。子女がおらず、爵位は異母弟チャールズが継承した[1]。 家族![]() 1794年6月9日、アメリア・アン・ホバート(1772年2月20日 – 1829年2月12日、第2代バッキンガムシャー伯爵ジョン・ホバートの娘)と結婚したが、2人の間に子供はいなかった[1]。 出典関連文献
外部リンク
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