1933年にはハーバード大学のノートン詩学教授 (Norton Professor of Poetry) に任じられた。1933年から1943年に没するまでの間にはダンテの『神曲』の翻訳を刊行した。ロンドン大空襲についての詩"The Burning of the Leaves"を含む戦争詩は彼の代表作と広く見なされている。
1893年の卒業直後よりビニョンは大英博物館の印刷書籍部に勤め、博物館の展覧会カタログ(英語版)と自身の美術研究書の執筆を始めた。1895年には最初の著書Dutch Etchers of the Seventeenth Centuryが出版された。同年版画素描部に異動しキャンベル・ドジスン(英語版)の部下となった[2]。1909年にはビニョンは管理助手となり、1913年には新たな副部門となる東洋版画素描部の学芸員に任じられた。その頃彼は、エズラ・パウンド、リチャード・オールディントン、H.D.のような若いイマジズムの詩人たちに東洋の美術と文学を紹介し、ロンドンにおけるモダニズムの形成に重要な役割を果たした。[3][4][リンク切れ]大英博物館が刊行したビニョンの著書の多くには彼の詩人としての感性による影響があらわれているが、博物館収蔵イギリス絵画目録(4巻本)や中国日本版画仮目録のような純粋に学術的なものもある。
当時で言う「世界大戦」の開戦とイギリス海外派遣軍のあまりの死傷者数に心動かされ、ビニョンは1914年に詩『フォー・ザ・フォーレン』("Ode of Remembrance"はこの詩の第3-4連または第4連のみのことを指す)を書いた。そのとき彼は北部コーンウォール沿岸、ポルツェス(英語版)かポーツレス(英語版)の崖地帯に滞在していた。(どちらの場所にもこの詩の記念碑があるが、ビニョン自身はポルツェス(英語版)と1939年のインタビューで述べている。この混乱はポルツェス近くにポーツレス・ファーム(Porteath Farm)があることと関係しているかも知れない)この作品は9月、国民感情がつい先ごろのマルヌ会戦に揺れている頃にタイムズ誌に掲載された。
今日ではビニョンのもっとも有名な詩となった『フォー・ザ・フォーレン』には、イギリスのリメンバランス・サンデー(英語版)の礼拝でよく朗読される。オーストラリアとニュージーランドのANZACの日の礼拝やカナダの11月11日リメンバランス・デー礼拝では不可欠な要素となっている[5][6]。こうして"Ode of Remembrance"は国を問わず戦傷者への賛歌としての座を得続けている。
They went with songs to the battle, they were young.
Straight of limb, true of eyes, steady and aglow.
They were staunch to the end against odds uncounted,
They fell with their faces to the foe.
They shall grow not old, as we that are left grow old:
Age shall not weary them, nor the years condemn.
At the going down of the sun and in the morning,
We will remember them.
They mingle not with their laughing comrades again;
They sit no more at familiar tables of home;
They have no lot in our labour of the day-time;
They sleep beyond England's foam
("Ode to Remembrance"は詩『フォー・ザ・フォーレン』に全7連の中盤の3連で、前後にさらに2つの蓮がある。追悼礼拝で用いられる頌歌(The Ode)は、通例では前傾の中盤3連のみである。詩の全文はこちら)
1915年には、陸軍の志願年齢制限を超えていたにもかかわらず、ビニョンはフランス軍兵士のためのイギリスの病院、フランスのアルク・アン・バロワ臨時病院(英語版)に志願し、しばらくの間看護人として働いた。1916年夏にはイギリスに戻りヴェルダンの戦線から後送された兵士の看護に携わった。彼はこの経験をFor Dauntless France (1918)に記している。詩"Fetching the Wounded"と"The Distant Guns"はアルク・アン・バロワ(英語版)における病院勤務の経験より着想したものである。
二次大戦中には、ビニョンはロンドン大空襲についての長詩"The Burning of the Leaves"の執筆を続け、これは彼の代表作と広く見なされている[12]。2016年にポール・オープレイ(英語版)は両大戦期に書かれた詩をまとめた詩選集Poems of Two Warsを新たに編み、ビニョン作品序説において彼の後期の詩を最上のものとしている[13]。
死の間際にはビニョンは3部から成る大規模なアーサー王三部作に取り組んでおり、第一部は没後にThe Madness of Merlin (1947) として出版された。
ビニョンの遺灰が撒かれたアルドワース(英語版)のセント・メアリ教会 (St. Mary's Church) には粘板岩製の記念碑がある。1985年11月11日にウェストミンスター寺院の詩人のコーナー(英語版)で除幕された16人の偉大な大戦詩人を記念する石版にはビニョンの名もあった[14]。石版の碑文は共に名を刻まれた大戦詩人ウィルフレッド・オーエンの引用である。碑文は次の通り。「私の主題は戦争、戦争の悲哀だ。詩は悲哀の中に在る ("My subject is War, and the pity of War. The Poetry is in the pity")」[15]
家族
3人の娘(ヘレン (Helen)、マーガレット (Margaret)、ニコレテ(英語版) (Nicolete))は芸術の道に進んだ。ヘレン・ビニョン(英語版) (1904–1979)はポール・ナッシュやエリック・ラヴィリオス(英語版)と共に学び、オックスフォード大学出版局出版物の多くの挿絵を手がけ、人形使いでもあった。彼女は後に人形劇の教師となり Puppetry Today (1966) and Professional Puppetry in England (1973)を出版した。マーガレット・ビニョンは児童書を著し、これにはヘレンが挿画を描いた。ニコレテ(ニコレテ・グレイ(英語版))は卓越したカリグラファー・美学者となった[16]。
来日
ビニョンは1929年に来日し、東京帝国大学において『イギリスの美術と詩における風景 (Landscape in English art and poetry)』と題した講演を行った[17](後日出版[18][19]、日本語訳あり[20])。
作者Binyonは1869年生れの英國の詩人竝に美術批評家で,創作,評論共に其の道の人の閒に重んじられて居ります。Oxford大學卒業後獨逸,佛蘭西,伊太利等の大陸諸國に美術行脚を試み,皈國後The British Museum(英國博物舘)に入り,同博物舘の東洋美術部長の職に在った人。1929年の秋來朝しまして,多年目のあたり觀たいとあこがれてゐた日本の美術や風光を賞し,東亰,京都,仙臺の各地で英國の美術及び文學に關する講演を行ひ,上野の美術硏究所で英國から持參しました水彩畫の展覽會を開き,吾々に多大の感銘を與へ,斯道に寄與したことは多數諸君の旣にご存知のことと思ひます。Binyonは如何にも英國人らしい地味な詩人で,約四十年に亘る文壇生活中一度も人氣作者となったことはありませんが,繊細優雅な,健實な作風,明るい樂天的思想に依って現代の英詩壇に重要な地位を占めて居ります。美術批評家としてのBinyonは特に支那,日本の繪畫,Blake及びBotticelliの硏究家として有名であります。
作品
詩作品
Lyric Poems (1894)
Porphyrion and other Poems (1898)
Odes (1901)
Death of Adam and Other Poems (1904)
London Visions (1908)
England and Other Poems (1909)
"For The Fallen", The Times, 21 September 1914
Winnowing Fan (1914)
The Anvil (1916)
The Cause (1917)
The New World: Poems (1918)
The Idols (1928)
Collected Poems Vol 1: London Visions, Narrative Poems, Translations. (1931)
Collected Poems Vol 2: Lyrical Poems. (1931)
The North Star and Other Poems (1941)
The Burning of the Leaves and Other Poems (1944)
The Madness of Merlin (1947)
Poems of Two Wars (2016)
1915年にシリル・ルーサム(英語版)は『フォー・ザ・フォーレン』を合唱/管弦楽曲に編曲し、初演はケンブリッジ大学音楽協会(英語版)・作曲者指揮により1919年に行われた。エドワード・エルガーはビニョンの詩3篇(The Fourth of August・To Women・ For the Fallen、詩文選The Winnowing Fanに収録されたもの)を『イングランドの精神(英語版)、テナーまたはソプラノソロ、コーラスとオーケストラのための(1917)』として編曲した。
イギリス美術・伝説
Dutch Etchers of the Seventeenth Century (1895), Binyon's first book on painting
John Crome and John Sell Cotman (1897)
William Blake: Being all his Woodcuts Photographically Reproduced in Facsimile (1902)
English Poetry in its relation to painting and the other arts (1918)
^“Ode of Remembrance”. Fifth Battalion The en:Royal Australian Regiment Official Website. 2007年3月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年6月12日閲覧。"Titled; For the Fallen, the ode first appeared in The Times on 21 September 1914. It has now become known in Australia as the Ode of Remembrance: the verse in bold above is read at dawn services and other ANZAC tributes."