万代 (大阪市)
万代(ばんだい)は、大阪市阿倍野区南部から大阪市住吉区北部にかけての地名。 現行の「万代」を冠する町名としては、阿倍野区万代一丁目および住吉区万代二丁目~六丁目、住吉区万代東一丁目~四丁目の町名が設定されている。町名としての「万代」は阿倍野区と住吉区の2行政区にまたがっているが、丁目は通し番号で設定されている。広域的には北畠・帝塚山界隈の一角として扱われることもあり、地域には「北畠」や「帝塚山」の名称を冠した施設等も見られる。 区によって町名が分断されている大阪市の町としては、他に日本橋(1・2丁目が中央区、3~5丁目が浪速区)・上汐(1・2丁目が中央区、3~6丁目が天王寺区)などがあり、かつては天神橋も1~6丁目が北区(旧)で7・8丁目が大淀区であった事例もある。 地名については、現行の行政上では「ばんだい」であるが、地元では「まんだい」と読まれることもある。 地名は当地にある万代池に由来している。古歌に詠まれた「長居池」は現在の長居にあった池のことを指す説がある一方で、万代池のことであるとする説もある。 歴史近代には住吉郡(のち東成郡)住吉村の小字の名称として万代の地名が見える。当時の住吉村小字万代は万代池の北西付近、現在の住吉区帝塚山東一丁目~二丁目付近にあたる。一帯は明治時代中期以降、北側・西側に隣接する帝塚山や北畠、さらにその北西にある天下茶屋界隈とともに宅地開発が進められた。 住吉村は1925年4月1日付で大阪市に編入され、住吉村など周辺の12町村で住吉区が発足した。大字を設定していなかった旧住吉村の地域では、大阪市編入に伴って全域が住吉区住吉町となり、地名としての万代は一度地図上からは消失した。 1938年には従来の住吉区住吉町の一部を分割し、住吉区万代東および万代西の町名が設定された。1943年4月1日には当時の住吉区が住吉区・阿倍野区・東住吉区の3区に分割されたことに伴い、従来の万代東・万代西のうち都市計画道路(現:南港通)以北が阿倍野区に、以南が住吉区に分割されることになった。 阿倍野区側では1966年、万代東一丁目の一部を播磨町一丁目に編入した。また翌1967年には住居表示の実施により、従来の阿倍野区万代東・万代西を中心にして阿倍野区万代一丁目を設定した。 住吉区側では1981年2月2日付で住居表示を実施した。従来の万代西・万代東の大部分に加え、帝塚山東・住吉町・上住吉町・播磨町西・大領町のそれぞれ一部を編入して再編成する形で、住吉区万代二丁目~六丁目および万代東一丁目~四丁目の町名を設定した。一方で従来の住吉区万代東の一部を大領に編入し、従来の万代西の一部を帝塚山東に編入している。 世帯数と人口2024年(令和6年)9月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである[3]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移。なお、阿倍野区と住吉区の人口を合算している。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。なお、阿倍野区と住吉区の世帯数を合算している。
学区阿倍野区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[14]。なお、小学校・中学校入学時に学校選択制度を導入しており、通学区域以外に阿倍野区の小学校(自宅から概ね2km以内)・中学校から選択することも可能[15]。
住吉区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[16]。なお、小学校・中学校入学時に学校選択制度を導入しており、通学区域以外に住吉区の小学校・中学校から選択することも可能[17]。
事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[18]。
交通バス2020年4月現在
道路施設
その他日本郵便
参考文献
脚注
関連項目
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