三共 (製薬会社)
三共株式会社(さんきょう、英: Sankyo Co., Ltd.)は、かつて存在した日本の医薬品メーカー。第一勧銀グループ・みずほグループに所属していた。東京都中央区日本橋本町三丁目5番1号に本社を置いていた。スローガンは「CARE & CURE(ケアー&キュアー)で人と向き合う」(2001年3月1日に制定)。 沿革匿名合資会社三共商店として資本金3,000円で1899年(明治32年)3月1日に、塩原又策の本業だった横浜絹物会社の敷地内に設立された[1]。当初はアメリカでジアスターゼの大量抽出法を開発した高峰譲吉との間に、日本・中国・朝鮮における独占的な販売許諾を契約を結び、「タカヂアスターゼ」と命名して輸入販売した[2]。「三共」という名称は創業者である塩原又策と、塩原のかつての同僚であり高峰との交渉を担当した西村庄太郎、塩原の義弟である福井源次郎の三人が共同出資したことにちなむ[1]。 1901年(明治34年)、横浜絹物会社の解散とともに横浜弁天通に三共商店として再登記し、三共商店薬品部の名称が使用されるようになる[2]。翌年の1902年に高峰との間にアドレナリンの独占販売契約を結ぶ。また、タカヂアスターゼの製造元である米国の大手製薬メーカーであったパーク・デービス社(ワーナー・ランバート社を経て、現:ファイザー社)の総代理店を日本橋に開設し、武田長兵衛商店と提携して商材と販路を拡大した[1][2]。 1905年(明治38年)に箱崎に箱崎工場を開設し、製薬業に進出する[2]。1907年(明治40年)に合資会社「三共薬品合資会社」に改組[2]。翌1908年(明治41年)、欧米の医科器機を輸入販売する医科器機部の設置を契機として「三共合資会社」に改称[2]。同年、品川に品川工場を開設する[2]。脚気の特効薬オリザニンなどを開発し、輸入薬の国産化をすすめる主力工場となった[1]。 1913年(大正2年)に三共株式会社に改組[1][2]。初代社長に高峰を迎え、塩原は専務取締役となる。アジア圏でのタカヂアスターゼの製造権を獲得し、国産化を実現した。 1921年(大正10年)4月、日本初の合成農薬としてクロルピクリンの製造を開始[3]。また同年9月、理研の鈴木梅太郎指導のもと、合成清酒開発に着手[2]。1923年(大正12年)には小西新右衛門らとともに大和醸造株式会社を創業、塩原も代表取締役に就任した。 戦前には製薬業以外にも多角化戦略として農薬事業や、ベークライト事業(後の住友ベークライト)、自動車販売代理店などを行っている[4]。1908年には渡米した高峰譲吉の奨めによりフォード・モデルTを輸入、日本におけるディーラー第1号として6台販売したのち輸入権を返上した[5]。また、モーターサイクル事業としてハーレーダビッドソンの輸入販売を行い、金輸出再禁止によって輸入車の価格が高騰した後は国産オートバイの開発に着手し、1933年(昭和8年)に「陸王号」を完成させた。陸軍に採用されるなど陸王号の需要は拡大、1937年(昭和12年)に子会社「三共内燃機」(後の陸王内燃機)が設立された[4]。 1983年(昭和58年)から2002年(平成14年)まで(1986年・1995年を除く)の創業記念日の3月1日には創業記念広告シリーズを新聞などに掲載していた。 2005年(平成17年)9月28日、第一製薬と持株会社方式で経営統合。2005年4月1日に三共を抜き業界2位となったアステラス製薬(山之内製薬、藤沢薬品工業が合併)を抜き、武田薬品工業に次ぐ業界2位となった。共同持株会社として「第一三共株式会社」を設立。2007年(平成19年)4月に、第一製薬ともども第一三共に吸収合併され完全統合した。 代表的な商品![]() 医療用一般用非医薬事業主要グループ企業
ほか 歴代の提供番組テレビ
ラジオ
脚注注釈出典参考文献
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia