下山口新田
下山口新田(しもやまぐちしんでん)は、埼玉県さいたま市緑区の大字。郵便番号は336-0925[2]。北部は芝川第一調節池の建設が進んでいる。 地理さいたま市緑区東部の沖積平野(見沼低地)に位置する。地区の東側で川口市大字行衛や同大字差間、南側で川口市大字東内野や同大字木曽呂、西側で大字大間木や大字大牧、北側で大字大崎や大字間宮と隣接する。また、西側では大字蓮見新田ともわずかに隣接し、北西側では対角線上に大字見沼も位置している。全域が市街化調整区域である[4]。北部は見沼の干拓によってできた新田であり、昔から八丁堤より南部に集住していた。現在も地区内では八丁堤付近に住居がある。見沼代用水東縁と芝川に囲まれた南北に長い区域を有しており、かつて見沼であった付近には治水のための芝川第一調節池が建設され、西側の池となる。 地名の由来1728年(享保年間)に行われた見沼の干拓は、殆どが村請けで持添新田開発として実施されたが、上山口新田と下山口新田のエリアは町人請けとし、江戸の商人鯉屋藤左衛門が開発した[5][6]。鯉屋の姓が山口であったことから、北部にある方を上山口新田、南部にある方を下山口新田と名付けた。 歴史もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡三沼(見沼)領のうちの下山口新田であった。村高は『天保郷帳』では168石余であった[5]。村の規模は東西3町余、南北8町余で、化政期の戸数は16軒であった[5]。南端の八丁堤には赤山街道が通っていた。
世帯数と人口2017年(平成29年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[10]。
交通鉄道道路史跡調節地建設が進む北部の字四本竹には四本竹遺跡があった[4]。1991年(平成3年)の発掘調査で竹が群集して立てられた状態で発見され、古銭も発見された。氷川女体神社で行われる御船祭の渡御水域の祭祀場跡である。見沼の干拓によって儀式の執行が不可能になり、祭祀は廃止された[5]。 施設
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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