中央区立佃島小学校
中央区立佃島小学校(ちゅうおうくりつ つくだじま しょうがっこう)は、東京都中央区佃2丁目にある公立小学校。 概要中央区に16校ある区立小学校の1つ。1888年(明治21年)に佃島尋常小学校として開校し、1911年(明治44年)から1920年(大正9年)まで休校した。再開後、東京府東京市佃島国民学校・東京都佃島国民学校・東京都中央区立佃島小学校と校名を改め、2000年(平成12年)に現在の中央区立佃島小学校に改称した。 現在の校舎は、隣接する中央区立佃中学校との複合校舎である。校舎の外観には端々に佃島の外形を意匠化した三角形や四角錐のモチーフが用いられている。 本校が所在する東京都中央区佃(佃島)は隅田川の河口に位置しており、隅田川も本校から近い。近隣には大川端リバーシティ21などの新興住宅地域もある。佃島の成り立ちの経緯にちなみ、大阪市立佃小学校と姉妹校として交流している。 中央区内に21ある選挙の投票所の1つ(第16投票所)として用いられている[1]。 沿革
校地![]() 所在地校舎複合校舎の北側が小学校(本校)、南側が中学校(中央区立佃中学校)である。北側の小学校部分は5階建て(5階が屋上)、南側の中学校部分は6階建て(6階が屋上)である。同じ中央区立の小学校と中学校の複合校舎ではあるが小中一貫校ではないため、両校それぞれの玄関が設置されていることをはじめとして、原則として両校の動線は交わらないよう設定されている。ただし、中学校における部活動では、中学校の体育館の他に、小学校の体育館も使用する。 複合校舎の外観は、端々の壁面は三角形のモチーフ、屋上部分は両校1つずつの大きな四角錐のモチーフによって装飾されている。これらのモチーフは、両校の所在する佃島の外形を意匠化したものである。このうち、壁面の三角形のモチーフは同じ形状ながら小学校と中学校で色違いであり、小学校部分は桃色・中学校部分は水色である。 通学区域以下の通り通学区域が定められているが、中央区では「小学校特認校制度」が導入されているため、本校の通学区域から特認校である他の中央区立小学校に入学することも可能である。本校は特認校ではないので、通学区域外から本校に入学することはできない[6]。なお、隣接する中央区立佃中学校の通学区域は、本校と中央区立月島第一小学校の両校の通学区域を合わせたものである。
通学区域の変更2025年(令和7年)4月1日より、下記区域に通学区域が変更される[8][9][10]。
これまで佃は、1丁目と2丁目が本校の通学区域、3丁目が月島第一小学校の通学区域であったが、今回の通学区域変更により佃全域が本校の通学区域となった。また、月島1丁目についても、本校と月島第一小学校で通学区域を分け合っていた状態だったが、今回の通学区域変更により月島1丁目全域が本校の通学区域となった。 なお、本校と同一の通園区域でありかつて本校に併設されていた月島幼稚園についても、本校の通学区域変更と合わせて同一の通園区域に変更されるほか、この変更に伴う経過措置では現在も月島幼稚園は佃島小学校に併設されているものとみなして取り扱う。また、月島第一小学校ではこの他にも月島第三小学校との間にて通学区域の変更があるため、これに合わせて佃中学校と晴海中学校の通学区域も変更される。 児童数と教職員数の推移大川端リバーシティ21などの新興住宅地域が通学区域に含まれており、その住民らを多く吸収している。
校名本校の所在地は、1967年(昭和42年)3月の住居表示実施以前は佃島と称されていて、住居表示実施以前に開校した本校の校名はこれに由来する。佃地区では1967年(昭和42年)3月の住居表示実施で佃島が佃と改称されて以降、施設名称にも従来の「佃島」に代わり「佃」を冠する例が増えており、2016年6月現在、中央区立佃島小学校が公共の施設として唯一名称に佃島を含む(なお、民間の施設や団体には築地本願寺佃島説教所、佃島剣道教室、佃島スポーツ少年団などにその名が残る)。なお、隣接する中央区立佃中学校は、住居表示実施後に開校したため、「佃」を冠する。 なお、2000年(平成12年)4月1日の「中央区条例の題名等を統一する条例」の施行に伴い、本校は同日に「東京都中央区立佃島小学校」から「中央区立佃島小学校」に改称している。ただし、現在でも旧校名が使われることもあり、例えば校門前に設置されている校名碑には旧校名の「東京都中央区立佃島小学校」と刻まれている。隣接する中央区立佃中学校も同様であり、校名碑には「東京都中央区立佃中学校」と刻まれている。 休校以前の歴史本校は、1888年(明治21年)に開校したのち、1911年(明治44年)から1920年(大正9年)まで休校している。この休校ののち、本校の開校は、本校が再開した1920年(大正9年)とされた。したがって、この再開以前の本校の歴史は一時的に消えた。のちに、1955年(昭和30年)10月に就任した学校長が、就任早々に、「佃島小学校から分校したはずの月島第一小学校が創立49周年で、佃島小学校が今年創立35周年なのはおかしい」と気付いた[12]。分校した月島第一小学校よりも佃島小学校のほうが歴史が短い、という矛盾を見つけたのである。この学校長が、古文書を調べたり、本校の卒業生に聞いて回ったりした結果、明治時代に授与された本校の卒業証書を持つ者が現れ、1888年(明治21年)創立という事実が判明した。このことにより、1920年(大正9年)創立とされていたものが1888年(明治21年)創立に、また創立記念日は10月1日に訂正され、本校の歴史は、それまで分かっていたものより32年伸びた。また、このことにより、1955年(昭和30年)11月25日に挙行された創立35周年記念式典から1年足らずの1956年(昭和31年)10月1日に創立68周年記念式典が挙行された。現在の本校の卒業証書番号は、1920年(大正9年)から数えられている番号である。 姉妹校所在地の東京都中央区佃には、摂津国佃村(現在の大阪府大阪市西淀川区佃)の漁夫33人が江戸に移り住み、この島を故郷の地名から「佃嶋」と命名した歴史があることから、中央区立佃島小学校と大阪市立佃小学校は姉妹校として交流している。なお、交流に際しては、中央区立佃島小学校を「東京佃島小学校」、大阪市立佃小学校を「大阪佃小学校」と呼称している。 1964年(昭和39年)夏に大阪佃小学校の教員が偶然本校に訪問し、翌年の1965年(昭和40年)4月に大阪佃小学校のPTA副会長と児童4名が本校を参観し、このことが交流のきっかけとなった。 同年10月12日、「由緒ある大阪市立佃小学校との交流を図りたい」として本校PTA会長と話し合いを続けていた本校学校長が、PTA会長・PTA参与とともに大阪佃小学校を訪問して、両校間に姉妹校の関係が結ばれるに至った。この訪問が、現在まで続く交歓会の第1回とされる[13]。 両校は、毎年交歓会を実施している。2018年(平成30年)までは、1年交代で一方の学校の児童代表及び教職員代表がもう一方の学校を訪問し、交歓会を実施していた。2019年(令和元年)からは、大阪佃小学校の所在地である大阪府大阪市西淀川区と「教育・人づくり分野」で連携協定を結ぶリコージャパンの協力により、オンラインのテレビ会議システムによる中継で両校を繋ぎ、全校児童が参加して実施されている。それまでは、会場ではない学校の児童は訪問した児童しか参加できなかったが、最先端のICTを用いることによって、両校の全校児童が参加できるようになった[14][15][16][17]。 本校の周辺にある住吉神社は、大阪佃小学校の周辺にある田蓑神社の神主が江戸佃島に移住した際に分霊して創建したものであるが、田蓑神社内に設置されている「佃漁民ゆかりの地」の石碑の案内板には、本校と大阪佃小学校が姉妹校として交流している旨が記されている[18]。 出身有名人学校の周辺
交通アクセス
脚注
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