九十九橋
九十九橋(つくもばし)は、福井県福井市の足羽川下流部に架かる、福井県道6号福井四ヶ浦線上にある橋。現在の橋は1986年(昭和61年)に架け替えられたもの。福井市ではこの橋(あるいは足羽川)を境に橋北(きょうほく)、橋南(きょうなん)と分けられることもある。 現在の九十九橋
歴史![]() 明治以前戦国期以来、福井城下の足羽川に唯一架かる橋であった。1491年(延徳3年)、冷泉為広の越後下向日記には「石バ、百八間ノ橋アリ」とあり、また、水落神明社には1568年(永禄11年)に朝倉氏奉行人が発給した橋修理の文書が存在する[4]。その後、柴田勝家の普請により、北半分が木造、南半分が石造の橋となる。江戸時代には半石半木の橋として有名になり、和漢三才図会[2][5]、東遊記[5]、葛飾北斎の諸国名橋奇覧[2][5]に記載されている。また、橋番付では「福井掛合橋」として東関脇に位置付けられている[2]。 北国街道の一部であり、南詰には小石原門が、北詰には照手門、木戸、高札場、常夜灯があった[5][6]。 半石半木の構造当時、足羽川は河川敷の北側を流れ、南側には桃林が広がっていた。流れがある北側の47間(約85 m)が木造、南側の41間(約75 m)が石造であった。橋脚は木造部に14基、石造部に31基あり、径間長は木造が石造の約2.5倍ある。[7] 半石半木の構造になったのは、以下の何れかの経緯によるものと言われている。
石造部の素材には足羽山で採掘された笏谷石が使用された。石材を運ぶには労力を要するので、足羽山から近い南側を石造にしたとする説もある[8]。 なお、長さが88間(約160 m)であったことから米橋とも呼ばれていた。 明治以降1874年(明治7年)に半石半木としての最後の架け替えがあり、1909年(明治42年)7月18日[9]5径間木製アーチのボウストリングトラス橋に架け替えられた[10]。トラス橋への架け替えの際に、橋桁の一部を用いて福井県里程元標を作成し北詰に設置した。里程元標は後に柴田勝家の菩提寺である西光寺に移される。元の位置には復元された里程元標が建てられている。石橋の橋脚は、福井市立郷土歴史博物館と柴田神社に残されている。また、柴田神社に再現された半石半木の九十九橋の高欄には、当時の石材がそのまま使用されている。 1933年(昭和8年)9月19日[11]に10径間鉄筋コンクリート桁橋[10]になり、1986年(昭和61年)5月10日[12]に現在の橋となる。橋上の歩道には、屋根付きでバルコニー型に張り出した休憩所が、上流側、下流側それぞれに3箇所ずつある。右岸では、橋詰下流側に復元された福井県里程原標、アプローチ途中西側の郵便局付近に「九十九橋の歴史」碑、アプローチ下の九十九橋北交差点南東角に「九十九『長寿』橋」という看板が建っている。 周辺
関連項目脚注出典
参考文献
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