京都丹後鉄道宮福線
宮福線(みやふくせん)は、京都府宮津市の宮津駅から同府福知山市の福知山駅に至るWILLER TRAINS(京都丹後鉄道)の鉄道路線である。路線記号は「F」[2]。 北近畿ビッグXネットワークの一角で、「X」の右斜め上を担っている。福知山駅 - 宮津駅間を短絡し、京都・大阪方面から日本三景の天橋立を始めとする丹後半島への観光アクセス路線となっている。福知山駅 - 大江駅間は由良川に沿って進み、大江駅 - 宮津駅間は全長3,215 mの普甲トンネルを始めとするトンネルの連続で山を越える。路線の起点は宮津駅であるが[3]、時刻表では福知山駅から宮津駅へ向かう列車を下り、奇数の列車番号としているなど、案内等において事実上福知山駅を起点として扱われていることが多い。 概要元は日本鉄道建設公団建設線の一つで、宮福鉄道(当時。法人としては現在の北近畿タンゴ鉄道)が凍結されていた当路線の工事を完成させ、1988年7月16日に開業した[4]。2015年4月1日からは、WILLER TRAINS(京都丹後鉄道)を第二種鉄道事業者、北近畿タンゴ鉄道を第三種鉄道事業者とする上下分離方式によって運行されている(後述)。 宮福線は全線が電化されており、西日本旅客鉄道(JR西日本)所有の電車が一部の特急列車(1日8往復中3往復)や普通列車に使用されている。ただし、車両を保有する北近畿タンゴ鉄道とその車両を借り受けているWILLER TRAINSは電車を保有していないことから、快速を含む普通列車で北近畿タンゴ鉄道の車両が使われる場合は気動車で運行されている。 JR西日本から電車による特急列車が宮福線へ直通する場合、WILLER TRAINSから北近畿タンゴ鉄道へ線路使用料、JR西日本へ車両使用料がそれぞれ発生する。JR西日本と京都丹後鉄道の乗務員は福知山駅で交代する。
路線データ
運行形態広域輸送京都方面から特急列車が宮福線を経由して宮津線(宮豊線区間)に直通運転されている[注釈 1]。また、京都・新大阪方面からの特急列車(「きのさき」・「こうのとり」)に福知山駅で接続することで、直通列車を補完する役割を担う列車も存在する。運行列車は以下の通り。
地域輸送普通列車・快速列車は、基本的に線内のみの運行で、1時間に1本程度の運行である。全列車が福知山駅 - 宮津駅間での運転である。過去には荒河かしの木台駅や大江山口内宮駅発着の列車が設定されていた。 2022年3月までは観光型列車「丹後あおまつ号」が宮津線に直通して福知山駅 - 天橋立駅間および西舞鶴発宮津経由福知山行きで運行され、宮福線内では全て快速列車として運行されていた[5]。 快速「大江山号」2008年3月15日のダイヤ改正より、宮福線内に設定されている快速列車。2024年3月16日改正時点で、福知山駅 - 宮津駅間で「大江山号」7往復に加え、列車名のない快速列車が上り1本運転されている[6][7]。 全車自由席で、運賃のみで利用できる。平均乗車人数が概ね5人/日未満の駅及び乗降客の利用時間帯が限定される福知山市民病院口駅・大江高校前駅を除いた駅を基本停車駅としており、時間帯によっては基本停車駅以外の駅にも停車する(下の停車駅の表を参照)。 かつては「大江山○号」のように号数が付いていたが、2024年3月16日のダイヤ改正で廃止され、あわせて「号」まで列車名に含まれる形に変更された[8]。2023年10月に廃止された特急「たんごリレー2号」に代わって宮津発7時台に無号数の快速「大江山」が設定されたが[9]、2024年3月16日のダイヤ改正で列車名のない単なる快速に変更されている[7]。
過去の列車快速「通勤ライナー」2017年3月4日のダイヤ改正により、宮津発福知山行きが上り1本のみ新設された[10]。使用車両はKTR8000形。途中停車駅は大江駅のみ[11]。 乗車の際には乗車券の他にライナー券(京都丹後鉄道の全有人駅で当日分のみ発売)が必要だったが、発売上限がないため着席保証はなかった[12]。2023年3月18日のダイヤ改正で廃止された[13]。 使用車両現在の使用車両
過去の使用車両
歴史福知山と宮津を結ぶ鉄道計画は古くからあり、1887年(明治20年)には関西鉄道が由良を経る経路で測量するが、実現しなかった。1892年(明治25年)には宮津側で宮津商港鉄道期成同盟会という運動が起るが、これも実現しなかった。さらに1896年(明治29年)には丹後鉄道株式会社の計画が、1906年(明治39年)には宮津電気鉄道株式会社の計画が出たが、いずれも経済的な事情などにより断念した[14]。 その後、国の手により宮津線の建設が進められ、これにより宮津にひとまず鉄道がつながった。これに合わせる形で、福知山から由良川沿いに鉄道を建設して国鉄線に連絡し、福知山と宮津を結ぼうとする計画が起き、北丹鉄道が設立された。1919年(大正8年)5月に免許を取得し、当初の宮津線の建設計画が舞鶴から真壁峠を越えて志高で由良川を渡河し、左岸沿いに河口へ下る計画であったことに合わせて、当時の丸八江村(現・舞鶴市)でこの宮津線へ接続する計画とされた。ところが志高での宮津線の架橋に対して、橋が水流の障害となって発生する洪水への懸念から上流の住民から反対運動を起こされ、宮津線は由良川の右岸を下って河口部で渡河する計画に変更されてしまった。このため、まず北丹鉄道は河守(現・大江駅付近)までを1923年(大正12年)9月に完成させ、さらに由良まで延伸して宮津線に接続する計画としたが、第一次世界大戦後の不況に直面するなどして資金難から延長工事は断念されてしまった。その後、宮津鉄道株式会社が大江山地を越えて河守 - 宮津間を結ぶ計画を立て、1924年(大正13年)に「開業の上は北丹鉄道と合併すべし」の条件付きで免許を取得したが、これも経済的な事情により断念となった[15][16]。 第二次世界大戦後、1948年(昭和23年)5月に宮津鉄道建設促進期成同盟会が結成され、北丹鉄道の国有化と残された宮津 - 河守間の建設を求める運動が開始された。この運動の結果、1953年(昭和28年)に鉄道敷設法別表79号の2に宮津 - 河守間が宮守線として追記され、予定線となった。その後調査線、建設線と昇格し、1964年(昭和39年)4月22日に工事実施計画の指示、1966年(昭和41年)3月25日に工事実施計画認可が行われ、日本鉄道建設公団(鉄道公団)により10月1日に着工となった。工事実施計画によれば、宮守線は全長17.6 kmで、宮津、喜多、辛皮、大江山口、丹後二俣の5つの駅が予定され、建設費は32億5500万円と試算されていた[16][17]。 1971年(昭和46年)9月には、線内最長の普甲トンネルが貫通するなど順調に工事が進められた。ところが、宮守線が接続するはずであった北丹鉄道は、モータリゼーションの進展による乗客の減少に加え、沿線の河守鉱山の休山(1969年(昭和44年))に伴って貨物輸送量も減少し、1971年に営業休止、1974年(昭和49年)に廃止となってしまった。これでは宮守線は盲腸線となってしまい意味がなくなることから、京阪神と丹後半島を直結するルートとして福知山までの建設を求める運動が起こり、これによって1975年(昭和50年)7月の鉄道敷設法改正により「京都府宮津ヨリ河守ニ至ル鉄道」は「京都府宮津ヨリ福知山ニ至ル鉄道」に変更となった。1978年(昭和53年)12月には福知山までの区間が工事線となり、宮守線を改め宮福線の工事実施計画の策定作業が始められた[17][18]。 しかし日本国有鉄道(国鉄)の経営悪化に伴い、特定地方交通線の廃止促進や新規地方交通線の建設凍結を定めた日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)が成立し、1980年(昭和55年)12月27日施行されたことにより宮福線の建設工事は中断された。建設続行の基準は輸送密度が4,000 人/日以上とされていたが、宮福線の開業後の推定の輸送密度は2,300 人/日であった。工事凍結の時点で、用地取得率56 %、路盤工事進捗率55 %となっていた[18]。 これに対して地元ではあくまで鉄道としての建設続行を考え、国鉄再建法の規定に基づき第三セクターでの引き受けを目指すことにした。このために1982年(昭和57年)9月22日に宮福鉄道株式会社が設立され、12月24日に宮福線の地方鉄道事業免許を取得し、1983年(昭和58年)2月28日に宮福線の工事が再開された。概算工事費は218億1200万円へ変更となった。こうして1988年(昭和63年)7月16日に宮福線が開業となった[4]。その後、国鉄宮津線が特定地方交通線として廃止対象になったことから、地元ではこれを第三セクターに転換して存続させることにし、宮福鉄道を1989年(平成元年)8月1日に北近畿タンゴ鉄道株式会社に改称して、1990年(平成2年)4月1日に宮津線をJR西日本から引き継いだ[18][19]。 宮福線の開業により、京都・大阪から宮津・天橋立へ向かう直通ルートができたことで北近畿の鉄道事情が大きく改善された。従来は、たとえば京都→天橋立の移動は、綾部駅と西舞鶴駅で二度のスイッチバックを伴うこととなり、時間的・心理的な遠さが存在していた。 当初は非電化で開業し、普通列車・快速列車が主体の運転で、特急列車の運転は極めて限られたものであった。その後、周辺のJR路線の電化が進展して特急列車の乗り入れを増加させるには電車を走らせられるようにする必要があること、高速道路網の整備を前に高速化する必要性があることなどから、電化・高速化の検討が始まった。鉄道整備基金の適用条件とするためには、最高速度を130 km/hにする必要があり、681系の性能を基に試算を行った。実際に投入されたのは485系(後に改造されて183系)となったことから、将来的な速度向上を実施との前提で鉄道整備基金の適用を受けており、実際の最高速度は120 km/hであるが認可最高速度は130 km/hとなっている。分岐器の交換と信号設備の改良による一線スルー化、曲線のカント向上と緩和曲線の延伸、電化などの工事が行われ、1996年(平成8年)3月16日に電化開業を迎えている。電化開業を前にした試運転では681系が使用され、予定通り130 km/hを達成できることが確認されている[20]。 2015年(平成27年)4月1日、鉄道運行事業が北近畿タンゴ鉄道からWILLER ALLIANCEの子会社であるWILLER TRAINS(京都丹後鉄道)に移譲された。これに伴い、京都丹後鉄道が第二種鉄道事業者、北近畿タンゴ鉄道が第三種鉄道事業者となり、上下分離方式による運行を開始した[21]。同時に路線記号・駅番号が設定された[2]。 年表開業前
開業後
駅一覧
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク |
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