仁義なき戦い 完結篇
『仁義なき戦い 完結篇』(じんぎなきたたかい かんけつへん、Battles Without Honor and Humanity: Final Episode )は、東映京都撮影所の製作[1][3]、東映配給により公開された1974年の日本映画[1][4][5][6]。主演:菅原文太、監督:深作欣二。「仁義なき戦いシリーズ」最終作。 解説広島抗争を描いたシリーズの完結篇であるが、実際は第四部『仁義なき戦い 頂上作戦』のラストで第二次広島抗争は終焉を迎えていたため、内容は第三次広島抗争を描いている。第四部まで続けてヒットしてきたため、東映は続編製作を構想するが[7]、脚本を担当した笠原和夫は第四部で終了した事を主張し、執筆を拒否[7]。そのため本作の脚本は、後に数々の「東映女やくざ映画」を手掛ける高田宏治に交代している[8][9]。 3億7100万円の配給収入を記録、1974年(昭和49年)の邦画配給収入ランキングの第8位となり[2]、シリーズ最大のヒットを記録した[10][11][12]。 ポスターに使われているキノコ雲は、実際には広島原爆ではなく長崎原爆の写真である。 あらすじ広能組・打本会の連合と山守組との広島抗争は、警察による組長クラスの一斉検挙、いわゆる「頂上作戦」によって終息に向かう。打本会は解散し、広能組長・広能昌三は網走刑務所に収監された。一方、山守組側では最高幹部・武田明が広島に散在するやくざ組織に大同団結を呼びかけ、市民社会からの厳しい視線をかわすため1964年(昭和39年)5月、政治結社「天政会」として統一組織を立ち上げた。 しかし天政会は、武田会長のヤクザ色を薄める運営に、副会長の大友勝利や幹事長の早川英男ら守旧派が反発し一枚岩ではなかった。そんな折、広能の兄弟分の市岡輝吉が天政会参与・杉田佐吉を暗殺する。報復を主張する大友と自重を厳命する武田との対立は深くなる。 1966年(昭和41年)6月、広島県警は天政会壊滅のため武田を検挙する方針を立てた。武田は逮捕直前に先手を打ち、自分の子分で天政会の理事長を務める松村保を強引に次期会長候補に決め、武田不在時の会運営を託す。武田の逮捕で天政会は混乱するが、松村は天政会理事の江田省一や各組の若手実力者の協力と豊富な資金力で危機を乗り切ろうとする。一方、大友はこの機に乗じて松村を殺害し天政会を牛耳ることを企てる。 松村の殺害は未遂に終わるが、天政会の各組は松村を弱腰とみなし、大友や早川らの反松村派は増長する。大友は天政会の敵であるはずの市岡と義兄弟の盃を交わし、市岡は大友を後ろ盾として松村組の縄張りを荒らして松村を挑発した。ここに至って松村は市岡を殺害。反松村派は震撼し、大友は有力子分から離反された上、警察に逮捕される。さらに松村は天政会傘下の全組長に盃直しを要求して自分の傘下に収め、不服の早川は引退する。こうして反松村派勢力は壊滅し、松村は天政会で強大な権力を得た。 1970年(昭和45年)6月、武田が出所すると松村は大人しく理事長に戻り、武田を会長とする。しかし、一度起きた松村への世代交代は2人の力関係を変化させており、3ヶ月後に出所する広能への対応を巡って対立が顕然化し始める。そんな折、天政会重鎮の槙原政吉が広能組の組員に暗殺され、穏健な対応を主張する武田は孤立し、天政会では広能への強硬論が支配的になった。 9月、長期刑期を終え出所した広能に武田が面会を求めてくる。あくまで穏便に解決したい武田は、世代交代を説いて一緒に引退するよう求める。その数日後、今度は松村が広能に面会を求め、武田が引退し自分を後継に指名した事を伝える。そして、広島と呉の全ての組織が1つにまとまる意義を話し、広能組を天政会で厚遇することと引き換えに広能自身の引退を迫った。広能は武田の引退に衝撃を受けるが、松村が天政会を纏めきれていない点を指摘、対応を保留する。 同月、松村は会長就任の挨拶のため腹心と共に関西に赴くが、その道中、反松村派の残党から襲撃され、瀕死の重傷を負う。反松村派は勢いづき、広能を自陣営に引き込むことを図る。 松村は重体にもかかわらず、決死の覚悟で会長襲名披露を行う。そこに広能は若頭・氏家厚司を伴って現れ、松村に組員たちを託す。広能組の天政会への参加で、浮き上がった槙原組員は呉市街で広能組員を襲撃、広能組員が死亡。広能は自分が知らない若い世代の組員の死をみて新旧交代を悟り、長年のやくざ人生からの引退を決意した。 キャスト広能組(モデル・美能組)
天政会(モデル・共政会)
河野組(モデル・浅野組) 槇原組(モデル・樋上組)
大友組(モデル・村上組)
早川組(モデル・山口(英)組)および百人会(モデル・十一会)
市岡組(モデル・宮岡組)
その他
スタッフ
製作企画とタイトル「仁義なき戦いシリーズ」は、第四弾『仁義なき戦い 頂上作戦』で、誰がどう見ても完璧なエンディングを迎えたが[11][13][14]、"映画は商品"と言い切る岡田茂東映社長が[15][16]、みすみすヒットシリーズを終わらせるわけはなく[3][14][16]、『頂上作戦』を書き上げた笠原和夫が、岡田社長と深作欣二、日下部五朗の四人で夜の京都に繰り出した折、四条大橋の上で岡田が笠原の肩に手を掛け「お前なァ、悪いけど『仁義なき戦い』をもう一本書いてくれないか」と囁き、笠原にさらなる続編執筆を要請した[7]。笠原は「あれはもう文太と旭の別れも書いて、二人とも刑務所に入れたし、もう書きようがない。無理です」と断ったが、岡田から「まあそう言わずに頼むわ」と無理強いされた[7]。バーに入って岡田に聞こえないように笠原が小声で深作に相談すると、深作は「笠原さんがホン書くならやるよ」と言う[7]。笠原は「よし。なんぼなんでもギャラが安すぎるから(一本120万円だった)値上げ交渉やろうや」と言ったら、深作「ああ、上げてくれなかったらストライキだな」 笠原「せめて一本2、300万円にして貰わないとな。ギャラ交渉が終わったら、お前に連絡するから、それまでお前は引き受けるな」 深作「わかった。おれのぶんの交渉もよろしくな」というやり取りがあり、深作と笠原は第五部のギャラアップの共闘を約束し、認めないなら第五部はやらないと申し合わせていた[7]。簡単に諦めるわけがない岡田社長は[16]、1974年の正月に東映本社に挨拶に来た深作に「今年はまず第五部だな、君、頼むよ」と半ば命令し[7][16][17]、深作が「終わったはずでは?」と言い返すと「"完結篇"が出てないやないか」と無茶苦茶な言い分で製作を承諾させた[7][14][16][17][18]。深作が笠原に電話で謝まってきたため、「ばか、何で引き受けたんだ。値上げ交渉する前に返事するやつがあるか! 何が反体制の闘士だ、おれはもう書く気はないぞ」と笠原は『あゝ決戦航空隊』の脚本に取り掛かっていてそちらに思い入れが行っていて「仁義なき戦い」は美学的決着もつけたし、それほど愛着はないと「仁義なき戦い」の脚本執筆を断固拒否し、高田宏治に脚本が交代した[7]。笠原はこのときのギャラ闘争が実り、『あゝ決戦航空隊』のギャラは150万円にアップし[7]、以降もギャラアップは続き、1982年の『大日本帝国』では1000万円に上昇したという[7]。 脚本東映から脚本の依頼を受けた当時の高田宏治にとって、笠原は目の前に聳え立つデカい山のような存在[8][19]。笠原の後を書く、そのことに武者震いをしたという[19]。笠原は第四部までで描き切れなかった事件を纏め上げた長い長い巻物を高田に渡した[19]。東映の後輩とはいえ、ライバルでもある者になかなか出来ることでなく、「この人はサムライやな」と高田は改めて感心した[19]。但し、自分がやる以上は「高田宏治の仁義なき戦い」を書き上げなければ意味がないと考えた[19]。一週間考え続け、見事な群像劇を作り上げた笠原脚本に対し、高田は一人の人間を主役にする、それも強い上昇志向と意地、そしてド根性のある男を徹底して共感を持って書く、という結論に達した[19]。さっそく広島に飛び、美能幸三や共政会(劇中の天政会)関係者に取材を行った[19]。美能は山村辰雄(劇中の山守義雄)の恨み節を延々と話し、高田に美能自身で始めから終わりまで山村の悪口を書いた『完結篇』の脚本を書き送って来るほどだった[19][18]。高田が主人公に考えたのは山田久(劇中の松村保)だったが、山田は美能でも押さえが利かない現役バリバリのやくざ[19]。第四部までで取り上げたのは過去の事件で、モデルになった人物の多くは死んでいるか、堅気になっていたため、何とか映画に出来たが、現役バリバリの山田を主人公にするには、あまりにも差し障りがあり過ぎた[19]。菅原もムリな続行で、やる気も落ちており[19]、仕方なく、3人の男を中心に据える方法を取ることにした[19]。主人公山田久(松村保、演:北大路欣也)の敵役に、宮岡輝雄(市岡輝吉、演:松方弘樹)と村上正明(大友勝利、演:宍戸錠)という2枚のヤクネタを配置する構成にした[19]。この構成で思い付いたのが、盃を押し付けるという手で、盃では繋がっていても気持ちは繋がっていない2人が、契約だけで揺さぶりをかける[19]。第四部までにはなかった構図で、これはハードな戦いになると勝算が見えたという[19]。これを表現する際たるパートが、有名な「牛の〇にも段々があるんで!」のシーンで[20]、高田はこの松方と宍戸のやり取りを時間をかけてこだわり抜いて書いた[19]。 この二人の料亭で対峙するシーンで、宍戸がテーブルの小皿やグラスを左腕一撃で払いのけると、宍戸の左腕の静脈がばっさり切れ、血がビューッと噴き出て、テーブルいっぱいに血が広がり、松方の隣にいた女優がそれを見て失神、「カメラが流血をうまく追いきれなかったのが残念」などと宍戸は述べているが[21]、松方の話では本編で使われているのは別テイクで、宍戸が手を切ったのはグラスを握り潰したテイク[22]。松方は「グラスを握り潰したんだわ、あの人。NHKでやっても本物の酒飲む人だからね。『アルコールの匂いがする役者になりたい』って、そりゃ本物飲んでんだから匂うよ!そりゃ違うだろ!だけど、錠さんはそう言うんだな。そのときもずっとテストやってて、本番でそれでしょ。驚いたねぇ。カットかかったら血が凄いんだもん。それで『はい、おつかれ』って、そのまま病院直行よ。なかなかグラスは潰せないよ、普通の力じゃ(笑)」などと述べている[22]。 キャスティング宍戸錠が演じた大友勝利は、第二部『仁義なき戦い 広島死闘篇』以来の登場だが、これは『広島死闘篇』で大友を演じた千葉真一が主演映画『殺人拳シリーズ』にクランクインしていたことから実現しなかったためで、大友はもともと『頂上作戦』から再登場する予定だった[23][24][25]。千葉は『広島死闘篇』の撮影途中から主演する映画『ボディガード牙シリーズ』の準備で髪を赤く伸ばし始めていたため、同作では帽子でごまかしていたが[23][26]、本作では大友が刑務所から出てきたばかりだというのに、赤髪だと都合悪いというのもあった[26]。もう一人、早川役の室田日出男もテレビの『前略おふくろ様』で人気が出て主役級になっていたため、スケジュール的に無理で織本順吉に代わった[25][26]。 佐伯明夫役の桜木健一は当時、東映製作のドラマ『柔道一直線』(TBS)、『刑事くん』(TBS)で、茶の間の絶大な支持を得ていた。特に30分で事件を解決する『刑事くん』がオンエアされているこの時期に本作の情けないチンピラ役はありえないキャスティングだが、岡田社長に「悲しい末路を辿るチンピラ役だけど出ないか」と誘われ、「あれほど大ヒットしている映画に出してもらえるなんて」と二つ返事で出演した[27]。ドラマの刑事役への影響なんてまったく心配しなかったという。桜木が転んで水中銃を自分の足に貫通させ敵側にリンチを受けるシーンでは、京都の大映通りを使い祭りのセットも完全に出来上がっていた。ところが売れっ子の桜木が関西テレビの仕事で撮影に間に合わず、一旦セットをバラして2日後に撮り直した。するとリンチをする役者が、本気で桜木の髪を掴むなど激しいリンチに。撮影を遅らせた返り討ちを受けたという[27]。 深作は「ショーケンや松田優作が出てたら歴史に残ったろうに、と思うなあ。考えてみたら惜しいことをした。片方にショーケン、片方に松田優作を置いていたらいうことなかったですね」など、『仁義なき戦い』で使ってみたかった役者として、この二人と沖雅也、水谷豊を挙げている[26]。 撮影市岡輝吉としてシリーズ3本目の登場となる松方弘樹は[28]、不気味さを強調するため、市岡の役作りとして、前二作とは別人に見えるように深作監督と色々相談した[29]。頭を白くする案は、深作に止められた[29]。眼の下のふちに朱を入れ、赤目がかかった感じにし、不気味さを強調している[28][29][30]。すぐ滲むので1シーンごとに入れたという[30]。深作監督も役者も年齢的に一番いい時で、深作もギラギラ感が出したいからと、眼を充血させるためにあんまり寝るな、という考えで、夜10時か11時に撮影が終わると深作は木屋町の高瀬川沿いのバー「きんこんかん」に、連日連夜役者を連れて行き、朝まで飲ませてそのまま撮影所に行った[30]。深作も酔っているのでカット割りも出来てなく、午前中は1カットぐらいしか回らない[30]。午後から2カットか3カットで、夕方5時以降5ー6カットで1日10カット程度しか撮らない、と松方は話している[30]。 本作のセリフで有名になったものとして、松方(市岡)が松村組の縄張りを荒らすシーンで云う「お前ら、構わんけ、そこらの店、ササラモサラにしちゃれい」があり[5][28][30][31][32][33]、「ササラモサラ」は「無茶苦茶」を意味する広島弁で[32][33]、これは高田脚本にもない松方のアドリブ[30][34]。深作は役者からの意見アイデアも取り入れたという[30]。 冒頭のオープニングクレジットで、天政会の組員が大通りをデモ行進するシーンで、テロップに「昭 40 8・6 原爆記念日」と出るが、高田脚本ではここは広島市内の八丁堀大通り(現在の相生通り)で「平和公園に向かってデモる百人余の天政会員達」と書かれていた[35]。実際の撮影は京都市の堀川通で撮影されたが[36]、今ではどの街の目抜き通りでも白昼でのヤクザ軍団のデモ行進など撮影許可は降りないものと見られる。また「原爆記念日」という言い方は古い呼び名で、近年ではあまり使われない[37]。 三代目を襲名した松村が大阪に出向いて踏切で襲撃されるシーンでは[38][注 1]、実際の撮影で電車が近付いている時、突き切ろうとした車のタイヤが溝に落ちた。その場にいた尼崎の若いヤクザらが、非常灯を振って阪神電車を止めてくれたおかげで無事撮影ができた[39]。この車の後部座席に乗っていたのは、山田久と原田昭三と竹野博士(運転は浅野眞一)である[38][40]。重傷の山田が4日後の共政会三代目会長襲名式を強行したのは、映画のクライマックスに描かれた通りで[40]、山田は四半世紀に渡って繰り広げられた広島抗争にピリオドを打ち、以来、広島から銃声は消えた[40]。山田は以降、会長在位17年を「山陽道のドン」として君臨、広島を平和に導いた最大の功労者でもあった[38][40]。 終盤、札幌刑務所を出所後、東京で疲れを休める広能にホテルの部屋で、武田が一緒に引退するよう求めるシーンの前は、高田脚本では氏家(伊吹吾郎)と銀座を歩き、長年の疲労から青信号で渡れず、赤信号になって歩き出し、車に轢かれそうになるシーンが書かれていた[41]。これが武田との会話に出た「娑婆のもんは、青信号でも信じられんわしじゃ。ましてや人の心の中はのう…」に繋がるのだが、銀座のシーンは撮影してカットされたか、撮影しなかったのかは分からないが、本編にはない。 作品の評価興行成績前四作を凌ぐ大ヒット[18]。 評論脚本が笠原和夫から高田宏治に交代したことで、厳しい評価もある[18]。高田は、いま思うと笠原さんや深作さんにうけようという気があった。映画を成功させたい気持ちから、なんとか小手先に走るというか、やはり緊張したなどと話している[42]。また、「松村保のモデル(山田久)が現役バリバリの人で、美能さんでも押さえのききにくい立場だった。だからこっちも気を使って、襲撃されたとき便所に隠れたという話を取材で聞いて、映画では少し遠慮して押入れに隠れることにしたんだけど、それでも大問題になりました。そんなことはしてないと。会社もずいぶん往生したみたいです」などと述べている[42]。笠原は本作について「大阪の事件をきちんと押さえていないのは弱いですな。あれは、出所した武田明(小林旭)が仕掛けて、松村保(北大路欣也)を殺そうとした天政会の内ゲバですから...」と述べているが[42]、高田は「その段階では書けますか。やらせた方じゃなしに、やられた松村のモデルの人がだまってないですよ、映画でそんなこと書いたら」「原爆直後の広島なら許されても、ライブとなると、実録やくざには難しいことがいっぱいあってね」「エピソードの羅列みたいな展開になったが、観客にはたいへんうけて、観客は群を抜いた。いろんな意味で、いい勉強をしたと思っています」などと話している[42]。大阪の事件で山田の車に同乗した竹野博士もこの内ゲバ説を示唆している[38]。 高田は数々の批判に自身の脚本に目を通す気も起きなかったというが[19]、「80歳を過ぎて思うことは、『完結篇』はシリーズの中で一番乾ききっており、笠原和夫の四部作は、タイトルとは違い中身は任侠にこだわる『仁義ある戦い』だったことに対して、『完結篇』は本当の意味での『仁義なき戦い』であると思う。『完結篇』は本当にしんどい仕事だった。しかし、自身の脚本家人生の記念碑的な意味を持つ仕事であったと思う」などと述べている[19]。 ビデオ「仁義なき戦い#ビデオとテレビ放映」を参照。 脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク[[Category:1970年代を舞台とした映画作品] |
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