今井五六
今井 五六(いまい ごろく、1893年〈明治26年〉10月14日 - 1969年〈昭和44年〉10月31日)は、日本の実業家、政治家、教育者。 片倉製糸紡績株式会社取締役、財団法人片倉学園理事長、片倉磐城製糸株式会社代表取締役、昭和興業株式会社取締役、株式会社美篶商会取締役、日東紡績株式会社取締役、長崎製糸株式会社取締役、昭和絹靴下株式会社取締役、片倉米穀肥料株式会社取締役、東邦石油株式会社取締役、富国火災海上保険株式会社監査役、極東化学工業所社長(初代)、片倉合名会社出資社員、埼玉県大宮市長(初代・第4代)、片倉工業株式会社取締役、東亜ゴム工業株式会社社長(第2代)、トーテックス株式会社社長(初代)などを歴任した。 概要昭和年間に製糸業にて成功した実業家であり、のちに政治家としても活躍した人物である。片倉財閥の幹部として大宮製糸所の工場長に就任し[2]、埼玉県の養蚕業、製糸業の発展に尽力した。また、片倉学園を創設し[2]、のちに埼玉県立大宮高等学校となる片倉学園工農学校の運営に携わるなど[2]、埼玉県の教育振興にも力を注いだ。後年、大宮市の初代市長[3]および第4代市長に選任されており、大宮市の基盤を築いた。また、極東化学工業所の初代社長として[4]、ナチス・ドイツから先端技術を移入し[4]、日本で初めてローテーション式製法によるゴム気球の製造に成功した。同社の流れをくむ東亜ゴム工業、トーテックスでも経営に参画し[4]、世界でも数少ない気象観測用ゴム気球の製造を手掛けるトーテックスの礎を築いた。 来歴生い立ち1893年(明治26年)10月14日[3]、長野県にて生まれた。父の今井五介は実業家であり[5]、五介の実兄である初代片倉兼太郞らとともに製糸業を営んでいた。初代兼太郞が営んでいた片倉組は[註釈 1]、五介の実弟である二代目片倉兼太郞が継承し、片倉製糸紡績として株式会社化された[註釈 2]。その後、片倉製糸紡績は、五介と縁戚関係にある尾澤福太郞が経営する尾澤組との合併を経て巨大化し[註釈 3]、片倉財閥として興隆を極めていた。 五六は上京して早稲田大学に進学した[5]。当時の早稲田大学には大学部と専門部が置かれていたが、五六は大学部の商科にて学んだ[註釈 4]。1917年(大正6年)、早稲田大学を卒業した[5]。 実業家として![]() ![]() 父である今井五介は片倉財閥の最高幹部として活躍し、中核を担う片倉製糸紡績の社長に就任することになった。五六も父と同じく片倉財閥の事業に携わることになった。埼玉県北足立郡に大宮駅が開業すると、片倉財閥も埼玉県への進出を本格化させた[2]。埼玉県に大宮製糸所が設置され[2]、五六はその工場長に就任した[2]。のちに、五六は片倉製糸紡績の取締役に就任した[1][5]。さらに、片倉磐城製糸においては代表取締役を務めた[5]。そのほか、昭和興業[5]、美篶商会[5][註釈 5]、日東紡績[5]、長崎製糸[5]、昭和絹靴下[5]、片倉米穀肥料[5][註釈 6]、東邦石油[5][註釈 7]、といった各企業の取締役にも就任した[5]。また、富国火災海上保険[5][註釈 8]、長崎製糸[5]、といった各企業の監査役も務めた[5]。また、片倉家の資産管理会社である合名会社としての片倉にて、出資社員の一人として名を連ねた[5]。 1939年(昭和14年)1月、靴下や気球のゴムの製造を手掛ける企業として、片倉財閥は極東化学工業所を設立した[4][註釈 9]。それにともない、同年1月にその初代社長に就任した[4]。ドイツ国の技術を積極的に導入し[4]、ローテーション式製法によるゴム気球の製造に成功している[4]。しかし、後述のとおり大宮市の市長に選任されたため[4]、1941年(昭和16年)1月に社長を退任した[4]。なお、後任には長瀬源一が就任した[4]。 その後、太平洋戦争が終結し、連合国軍総司令部による財閥解体により、片倉財閥の栄華も終わりを迎えた。1946年(昭和21年)9月2日、五六は片倉工業の取締役を退任した。なお、極東化学工業所を引き継いだ長瀬源一は東亜ゴム工業に改組し[4][註釈 10]、太平洋戦争終結後も引き続き社長を務めていた[4]。しかし、長瀬が死去したことから[4]、1960年(昭和35年)8月に五六が東亜ゴム工業の社長として返り咲いた[4]。その後、ゴム手袋の製造に進出した[4]。1965年(昭和40年)4月には東亜ゴム工業をトーテックスに改組したが[4]、引き続き社長を務めていた[4]。1969年(昭和44年)10月31日、死去した[3]。なお、死去にともない、トーテックスの社長には三男の今井公人が就任した[4][5]。 教育者として片倉財閥の埼玉県進出にともない、県内の教育振興にも取り組んだ[2]。財団法人として片倉学園を設立し[2]、片倉学園工農学校の設置・運営に携わった[2][註釈 11]。また、五六の邸宅の跡地は、大宮市民体育館(現・さいたま市大宮体育館)が建てられるなど文教施設として利用されている。 政治家として1940年(昭和15年)11月3日、埼玉県北足立郡の大宮町・三橋村・日進村・宮原村・大砂土村が新設合併し、大宮市が設置された。それに伴い、初代市長に選任された[3]。太平洋戦争開戦直前となる1941年(昭和16年)1月に着任し、戦中の1944年(昭和19年)5月に退任した。市長在任中は、太平洋戦争が激化するなかで誕生したばかりの市の舵取りを担うことになり、難しい市政運営を迫られることも多かったが、新市の礎を築いた。なお、後任の市長には、衆議院議員などを歴任した戸田由美が選任されている。その後、太平洋戦争終結後に、再び市長に就任している。 顕彰市長としての功績により、1969年(昭和44年)3月26日に大宮市から「大宮市名誉市民」に推挙され、この称号が贈られている[3]。その後、浦和市・大宮市・与野市が合併してさいたま市が新設されたことに伴い、「さいたま市名誉市民」の顕彰者として自動的にこの称号が贈られた者としてみなされている[3][6]。また、片倉学園など教育振興の功績により、片倉学園工農学校の流れをくむ埼玉県立大宮高等学校に五六の銅像が建立されている[2]。 人物魚釣りを趣味としていた[5]。また、仏教を信仰していた[5]。 家族・親族
系譜
略歴
栄典脚注註釈
出典
関連項目
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