佐佐木家 (侯爵家)
佐佐木家[1](ささきけ)は、宇多源氏佐々木氏六角氏の庶流と伝わる武家・士族・華族だった日本の家。近世には土佐藩士家で一時期今北(今喜多)を称す。近代に佐佐木高行を出し、その勲功により華族の伯爵、後に侯爵家に列した[2]。 歴史佐佐木高行が出るまで佐佐木高行の生家である土佐の佐佐木家は、宇多源氏佐々木氏の嫡流にあたる六角氏の支流と伝わる[3][4]。 戦国時代後期の玄蕃は、三河国に住して徳川家康に仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで戦功を挙げた[3][4]。その子である十兵衛は母の故郷の伊賀国の今北大学を頼って今北を称し、慶長5年(1600年)に遠江国掛川城主山内一豊に仕え、翌年の一豊の土佐入封後は介良村に知行50石を受けた[5][4]。その息子の作兵衛を経て、その養子十兵衛の代に高知に移って本丸城番となり、留守居組の格式となった[5][4]。その孫高次の代に今喜多に改姓し、介良村の知行が蔵米支給に変えられた[4]。その孫高光は天明7年(1787年)に勘定奉行や金奉行を務めて知行を100石に加増され、佐佐木に復姓[5][4]。その跡は蟹江氏からの養子森任が継ぎ、長浜瀬戸村に移住した[6]。 その跡を高順が継ぐ。彼は100石取りの馬廻り組だった[4]。この高順が佐佐木高行の父である[6]。 佐佐木高行以降![]() 佐佐木高行(天保元年11月12日生、元治元年3月1日承、明治43年3月2日没)は、幕末に土佐藩内で出世して藩重役を歴任し[4]、尊王攘夷運動に共鳴し、坂本龍馬と連携して国事に奔走した[7][8]。戊辰戦争でも海援隊を率いて長崎奉行所を占領するなどの戦功を挙げた[8]。維新後、長崎府判事、刑部大輔、参議、司法大輔、左院副議長、元老院副議長などを歴任し、明治14年(1881年)には参議兼工部卿に就任した[7]。明治17年(1884年)7月7日に維新の功により華族の伯爵に列せられた[9]。明治18年には宮中顧問官、明治21年以降には枢密顧問官となる。その間に明治天皇の信任を得、東宮明宮(後の大正天皇)の御教育主任、また皇女房子内親王の御教育主任に任じられた[7]。房子内親王の結婚を機に、明治42年(1909年)4月29日付けで皇女養育の功により侯爵に陞爵した[7][9]。 翌43年(1910年)3月2日に高行は死去[1]、高行の長男高美(文久2年3月7日生、明治35年7月8日没)は、父に先だって死去していたため、高美の長男行忠(明治26年7月26日生、昭和50年8月10日没)が、祖父高行の跡を継いで家督と爵位を相続[1]。行忠は昭和12年(1937年)に貴族院副議長に就任している[1]。戦後は国史編集院総裁、神宮大宮司、神社本庁統理、国学院大学長などを歴任した[7]。 その息子行美(昭和3年6月26日生、平成28年6月25日没)は、東京大学理学部教授を務め、無機合成化学講座を担当した[10]。行美の夫人は住友財閥の住友吉左衛門男爵の長女邦子[7]。夫妻には行雅(昭和42年7月2日生)、行紀(昭和43年10月9日生)という2人の息子がある[7]。 昭和前期の佐佐木行忠侯爵の住居は東京市赤坂区青山南町にあり[11]、平成前期の佐佐木行美の住居は東京都文京区西片にあった[1]。 系図
系譜注脚注出典
参考文献
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