利用者:さくさく桜さん記録用の
概要![]() 台湾島の面積は日本の九州よりやや小さく、海上では東北に日本、南にフィリピン、北西に中国の三か国が隣国となっている[注 1] [1]。 長年の移民により多民族国家となっており[2][3]、現在の台湾島には漢民族系の閩南人・客家人・外省人の他に台湾原住民・日本人・オランダ人・スペイン人など様々な民族が混住し、各民族は多様性や多元論の原則に従って共存している。 中華民国としての事実上の首都は台北市であり、新北市・桃園市・台中市・台南市・高雄市などの5つの直轄市と合わせて「六都」と呼ばれ[4][5]、台湾の大都市圏を構成している。台湾の経済は半導体・ウェハー・ビデオカード・CPU・ノートパソコン・スマートフォン・人工知能をメインとして、ハイテク・IT産業・電子工学の分野で世界の最先端となっている。台湾製品は世界シェアの多くを占め、毎年世界から巨額の資金を吸収しつつ、中国・日本・スイスに次ぐ世界第4位の外貨準備高を有している[6][7][8]。そのため、台湾の一人当たり実質GDPは非常に高く、2009年からは日本を上回り、2023年現在では日本の1.4倍程度となっているほか、ドイツ・フランス・イギリスを含む多くのヨーロッパの国々も超えている。2023年からは一人当たり名目GDPでも日本を上回っている[9][10][11][12]。 公用語は中国語の一種である「中華民国国語」と呼ばれる言葉であり、中国の中国語「普通話」とは違いがあるが、基本的には言葉が通じる。しかし、普通話と中華民国国語の最大の違いは「漢字」にあり、中国では「簡体字」を使う一方、台湾は従来の「繁体字」を使う。繁体字は日本語でいうところの「旧字体」に当たり、ただ字体や用字法は異なる。また、台湾でもっとも話されている言葉は中華民国国語ではなく、「台湾語」と「台湾国語」である。台湾語は台湾総人口の7割を占める「閩南人」の言葉で、中国大陸の中国語とは全く言葉が通じない。台湾国語は中華民国国語を中心に、台湾語・客家語・日本語・オランダ語・原住民語の要素を加わって作り上げられた言語であり、多民族の国民の間の共通語として使われている。 台湾の歴史は世界的にも複雑と言われている。16世紀以前の台湾島は台湾原住民が住んでおり、17世紀にはポルトガル・スペイン・オランダ、1662年から19世紀まで中国大陸の明王朝や清王朝、1895年からには大日本帝国、1945年からげんだいまでの中華民国の統治をへて、混乱で複雑な愛国意識が生み出した。現在の台湾は「台湾国」ではなく、「中華民国」という国名で国際社会に存在している。 「台湾」の定義台湾は複雑な歴史を持つ故、そもそも台湾の定義に関しても定論がなく、以下は常用の四つの例を挙げる:
名称の由来台湾の語源は不明確で、原住民シラヤ族の言語の「Tayouan(ダイオワン)」(来訪者)という言葉の音訳とも、また、「海に近い土地」という意味の「Tai-Vaong」や「牛皮の土地」という意味の「Tai-oan」、「人間の場所」という意味の「Tayw-an」とも言われている。[14]大員(台湾語発音:Tāi-uân)(現・台南)が ダイワンと呼ばれており、そこにオランダ人が最初に入植したためとも見られている。いずれにしても原住民の言葉が起源と見られ、漢語には由来していない。中国の文献に台湾が台湾(台湾語発音:Tâi-uân)と呼称されるようになったのは清朝が台湾を統治し始めてからのことである。 別称台湾島には、フォルモサ(Formosa) という別称がある。欧米諸国を中心に使用されることがある。これは「美しい」という意味のポルトガル語が原義であり、16世紀半ばに初めて台湾沖を通航したポルトガル船のオランダ人航海士が、その美しさに感動して「Ilha Formosa(イーリャ・フォルモーザ=美しい島)」と呼んだことに由来するといわれている。なお、フォルモサの中国語意訳である美麗島や音訳である福爾摩沙を台湾の別称として用いることもある。 ちなみに、日本では高山国(こうざんこく)、もしくは高砂国(たかさごこく)と呼んだ。高山国や高砂国などは「タカサグン」からの転訛という。これは、商船の出入した西南岸の「打狗山」(現・高雄)がなまったものと思われる。正式の使節ではないが、タイオワン事件に関して、原住民が「高山国からの使節」として江戸幕府3代将軍徳川家光に拝謁したこともある。 中国による呼称の変遷『漢書地理志』の中に「会稽海外有東鯷人、分為二十余国、以歳時来献見……」との記載があり、一部の学者は東鯷とは台湾を指す名称であると主張している。しかし漢代の中心地は中原と呼ばれる、長安および洛陽を中心とする地域であり、福建省や広東省の沿岸地帯(河洛)に至ることは非常に稀であった。ゆえにその東岸にある島嶼を正確に記録したとは考えにくく、東鯷とは海上の島嶼群を漠然と示した名称であると考えられ、台湾の呼称と即断することは困難である。 三国時代には、沈瑩著『臨海水土志』と陳寿著『三国志』呉志の孫権伝の部分に記述が見られる。 『臨海水土志』に、「夷州在浙江臨海郡的東南、離郡二千里、土地無霜雪、草木不枯、四面皆山、衆山夷所居。山頂有越王射的正白、乃是石也。」「部落間互不相属、各号為王、分割土地……」、および
とあり、『孫権伝』には、
とある。これらの場合の夷州は台湾島の特徴に合致する。またこのような島嶼は中国南部の沿岸には台湾島以外に見当らないため、この時代には中国文明が台湾を認識していたと考えられている。 隋末から宋までの600年間、中国の文献の中で台湾の記事が出現しない空白期間を迎える。元代になると再び記録に台湾が出現するようになる。明代の記録である『東西洋考』『閩書』『世法録』では台湾を東蕃、と呼んでいる。周嬰在が表した『東蕃記』では台員、何喬遠が表した『閩書島夷誌』では大員、張燮の『東西洋考』では大円、何喬遠の『鏡山全集』では台湾、沈鉄的奏折の中では大湾のように様々な呼称が与えられている。また福建沿岸の民衆は台湾南部を毗舍耶、中原の漢族は台湾北部を小琉球と呼んでいる。 明の太祖・朱元璋の時代になると、琉球という呼称は沖縄・台湾双方を指す語として使われ続けたため、両者の区別に混乱が生じた。沖縄を大琉球、台湾を小琉球と呼ばれるようになるが、その後名称に混乱が生じ、小東島、小琉球、雞籠、北港、東番のような名称が与えられていた(地理そのものが知られていなかったので、これらが台湾全島を含んだとは限らず、台湾を中心とした概念だったかもわからない)。明末に鄭成功が台湾に建てた鄭氏政権時代になると、鄭氏政権は台湾を「東都」「東寧」などと呼ぶようになった。なお、「大員Tai-uan/ダイワン」の呼称が用いられるようになると、いつしか台湾近くにある琉球嶼(屏東県琉球郷)を指して「小琉球」と呼ばれるようになり、台湾と琉球嶼との間で両者の区別に混乱が生じている例もある[16]。 このような名称の変遷を経て、清が台湾を統治し始めた後に、原住民の言語を語源とする台湾が使われるようになった。 歴史![]() ![]() 16世紀以前の台湾島は台湾原住民が住んでおり、統一的な文化がなく、南部に大肚王国が存在しただけだった。、が居住していた。 17世紀前半ではポルトガル・スペイン・オランダなどの西洋諸国は台湾を開拓地として建設し、キリスト教の教会や、赤崁楼に代表される洋風な赤レンガの建築を多く建設した。ポルトガル人は台湾原住民かつて自分が住む土地の名前「フォルモサ」を ポルトガル語の「Formosa」に翻訳して、台湾初の名前になった。その意味は「麗しの島」 として知られた台湾島は、17世紀の大航海時代の風を乗り、オランダ及びスペインの植民を経由して大量な西洋文化を吸収した。 1662年、中国人であり漢民族でもある鄭成功は、台湾のオランダ植民者を追放し、台湾島を明朝再興派の基地となせ、台湾島初の政治的実体である東寧王国を設立した。同じ中国人だが、満州人が支配する清は後に東寧王国を破り、台湾島を併合した。1662年から19世紀まで中国大陸の明や清から漢人が台湾島へ移住し続けて、主流的な人口となり、仏教・道教・中華料理・繁体字などの中華文化も持ち込まれた[17]。 1895年(明治28年)、日本が日清戦争で清に勝利し、結果として下関条約が締結されると、台湾島・澎湖諸島が日本の領土となった。台湾は日本初の植民地として神社や和風の木造建築が建設された[18][19][20]。日本は台湾島に台湾総督府を設置して、その時の台湾の定義は明確であり、「台湾島と澎湖諸島」この二つの部分のみが「日本領台湾」だった。 1945年(昭和20年)、第二次世界大戦の末、日本はアメリカや中華民国に降伏し、台湾は当時中国大陸を代表する政府であった中華民国国民政府の統治下に入った。中華民国は1943年にカイロ宣言で台湾(台湾島・澎湖諸島)を「日本が清から盗取した中華民国に返還すべき地」と定めた。1945年、中華民国は台湾にある日本の統治機構を接収し、台湾島と澎湖諸島をあわせて「台湾省」として中華民国国の一部に編入し、これは「台湾光復」と言う。 しかし中華民国は1949年に第二次国共内戦で中国共産党に敗れて、ほとんどの大陸の領土を失い、台湾に撤退した。中華民国の領土は中国の「金門地域・馬祖地域」しか残らず、中華民国の政府を丸ごと中国大陸から台湾の台北へと移転し、これは「国府遷台」と言う。こうして、中華民国支配下の台湾は日本時代の「台湾島・澎湖諸島」の他に「中国福建省の金門島・馬祖島」も加えて、いわゆる現代の意味の「台湾地区」となった。台湾人も中華民国の体制下で生きていて、「台湾」と「中華民国」の意識が混同されている。このような歴史から、現在の台湾は「中華民国」という国名で国際社会に存在している。 1949年~1971年、国連における中国の議席はアルバニア決議、通称『2758号決議』によって中華人民共和国が中華民国の席を継承し、中華民国政府は怒って国連から脱退した。この決議によれば、中華民国の「中国を代表する資格」のみは中華人民共和国に渡したが、中華民国の領土や台湾の問題に関して何の法的結論は出さない。しかし、中国共産党が支配する中国は「一つの中国方針」に基づき、「2758号決議では中華人民共和国はもう中華民国を代わったから、そしてカイロ宣言では日本がもう台湾を中華民国に返したから、台湾全域はもちろん中国のモノだ」と主張している。 中華民国は1992年の民主化以降、中国大陸の主権を取り戻すことを放棄し、台湾人も中華民国への忠誠心より、台湾本土を専念する意識が強めている[21]。台湾を中華民国の「本土」と見なすか否か、そして「両岸関係・台湾独立・華独・台湾の定義・台湾主権未定論・法理建国」から生み出す論争点をめぐり、今の台湾では、中華民国を「台湾国」に本土化したい民主進步党が率い泛緑連盟と、中国との「統一」を目指す中国国民党が率い泛藍連盟は対立している。
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